「ボケの大きい写真が撮りたいっ!」
一眼レフ購入者の6割くらいの動機が、コレではないでしょうか。
「ボケ」はスマホやコンデジでは撮れない、一眼レフならではの醍醐味です。
さてこの「ボケ」。
いったいその魅力とはなんでしょうか?
なぜこうも我々は「ボケ」に魅了されるのか?
この「ボケ」は、それがなかったら、一眼レフの売り上げの6割程度が失われるかもしれない、重大な「経済問題」でもあります。
そこはソフトフォーカスのように、あいまいにするわけにはいかない問題です。
そんな「ボケ」について、今回は 文化的背景 から探ってみます。
我々の「ボケ」好きには、実に深~い意味が隠されていたのです。
目次
写真における「ボケ」
さて、写真における「ボケ」。
何ともいえない雰囲気を写真にもたらしてくれますね。
ただこれがあるだけでもう、どんな写真でも「イイ感じ」に仕上がってしまう魔法の要素です。
撮っているものは違えども、何ともいえない雰囲気の良さは共通です。
しかしみなさん、ご存知でしょうか?
この「ボケ」を好む傾向は、日本人特有であることを。
海外でこの「ボケ」を魅力的な要素として扱う発想が生まれたのはわりと最近です。
しかもそれは日本の「ボケ」の考え方が輸入されたものです。
この「ボケ」。
世界的に見た場合、それはどのように捉えられているのでしょうか。
「ボケ」という概念の世界的な広がり
海外でこの「ボケ」が認知されるようになったのは、1990年代後半だと言われています。
1997年に「Photo Techniques」誌において、Mike Johnston氏が紹介したのがキッカケだと、wikipediaには書かれています。
そして海外でも「ボケ」はやっぱり「bokeh」です。
それはすなわち「日本発」の用語である、ということを意味しています。
日本人特有の発想であるボケが、わりと最近、海外でも広まったということです。
ちなみに末尾に「h」が付いているのは、ふつうに「boke」だと「ボーク」と読まれてしまうからですね。
「coke」が「コーク」なのと一緒です。
「bokeh」と「blur」と「out of focus」
さて、ふつう英語で「ボケ」として使われる言葉は「blur」または「out of focus」が一般的です。
- blur=写真のピント面以外のボケた部分。「ブレ」の意味でも使われる。
- out of focus=(本来合うべき)写真のピント面がボケてしまうこと。「ピンボケ」と同じような意味。
ちなみにアメリカの友人に聞くと、「bokeh」とは聞いたことがない、「ボケ」はふつう「blur」だと言っていました。
「bokeh」は比較的新しく輸入された言葉であり、また、写真という特殊ジャンルの用語でもあるので、広く一般的には使われていないようですね。
ほとんど「写真用語」のような扱いでしょう。
海外における「bokeh」の意味
では海外において、普通に「ボケ」を表す言葉がある中に、「bokeh」なる言葉を新たに取り入れる意味はなんでしょうか?
それはすなわち、日本人の「ボケ」の概念を取り入れる、ということです。
今まで海外には存在しなかった「ボケ」という概念を、「あ、なるほどそういう考え方もアリね!」と言葉ごと取り入れたのが、「bokeh」です。
ではそれまでの海外での「ボケの概念」はどのようなものだったのでしょうか。
写真における「ボケ」の取り扱い【欧米編】
ここからは、海外=欧米(西洋)として、話を進めていきます。
欧米における「bokeh」以前の「ボケ」を表す言葉は、「blur」または「out of focus」です。
まずは元々あったこれらの言葉の意味をチェックしてみましょう。
blur
「blur」は「ブレ」の意味でも使われます。
つまり「blur」が指すものは、ボケもブレもひっくるめた、写真における「ハッキリと写っていない部分」となります。
流し撮りの「流れている部分」も「blur」だし、手ブレも被写体ブレも「blur」です。
一方、日本においては、「ボケ」は「ボケ」であって「ブレ」ではありません。
「ボケ」と「ブレ」はハッキリ区別されます。
- ボケ=「ボケ味」などとも言われる。「味」つまり「鑑賞すべき部分」
- ブレ=「ブレ味」とは言わない。つまり「鑑賞すべき部分」ではない
ここがまず、欧米と日本の「ボケ」に対する感覚の違いです。
「blur」には「味」とか「鑑賞すべき部分」という意味はありません。
そして、日本では区別される「ブレ」とも一緒くたです。
つまり、
- 日本の「ボケ」=味。鑑賞すべき要素=プラスの要素
- 欧米の「blur」=ただの写真上でハッキリしていない部分=プラスでもマイナスでもない要素
こういう違いがあります。
out of focus
次に「out of focus」ですが、これは直訳すると「ピントがずれている」です。
こちら場合は、「本来合わせるべきピントが合っていない」という消極的な意味がわりとハッキリしています。
日本語で言う「ピンボケ」とほぼ同じですね。
日本語の「ピンボケ」は、「話の論点がずれている」というような意味でも使われ、「本来合っているべき部分が合っていない」という、わりと消極的なイメージの言葉です。
ちなみに、ロバート・キャパの名著「ちょっとピンぼけ」の原題は「slightly out of focus」です。
ノルマンディ上陸作戦のあの有名な写真を「ちょっとピンぼけ」と表現するあたり、キャパらしいのユーモアのセンスですが、それがユーモアとして成立するのは、「out of focus」の「ネガティブな意味」が前提としてあるからですね。
欧米において「ボケ」とは
つまり以上をまとめると、そもそも欧米において「ボケ」には、なんら積極的な意味がない のです。
欧米において「ボケ」は、最大で「±0」、むしろできれば排除したいくらいの要素です。
それは、欧米の文化的背景を探ることによって、理解することができます。
教会の作り込みにみる欧米人の気質
その地方の精神的背景を探るのに、精神的施設である寺社の作りを見るのは、なかなかに有効です。
というわけで、西洋の宗教施設である「教会」に着目してみましょう。
西洋の教会は、非常に細かいところまで緻密に作られています。
「こんなところまで!?」っていうほど、どこまでも細かく細かく作り込まれています。
これは、西洋人の気質を率直に表しています。
つまり「分析的」なのです。
絵画の描き方にみる欧米人の気質
人を描くとしましょう。
すると、髪の毛の1本1本の流れ、服のシワの1本1本までも緻密に描き込むのが西洋流です。
細部がどうなっているのかを見たら、次にその細部の細部がどうなっているのかを見、次にその細部の細部の細部が…と、細かく追求していくのが西洋流です。
日本の絵と比べると、その差は 一目瞭然 です。
上記の2枚は、1794年という、同じ年に描かれた、西洋と日本の絵です。
まだ、東西の交流がほとんどない時代ですので、それぞれのオリジナルな文化的背景を色濃く反映しています。
西洋が分析的なのに対して、日本(東洋)は「包括的」です。
細かい部分ははしょって、あるいはむしろデフォルメして、存在感の本質をパッといっぺんに提示するのが東洋流です。
このあたりの気質は、現在の日本のアニメにも受け継がれていますね。
そして、西洋のこの「分析的」な気質は、西洋において科学を発達させる原動力になり、東洋の「包括的」な気質は、哲学や宗教を発達させる原動力になりました。
欧米ではあらゆる場面で合理的にものごとを判断し、日本ではあらゆる場面で精神論が幅を利かせる。
目に見えるものに重きを置くのが西洋で、目に見えないものに重きを置くのが東洋ですね。
皆さんよくご存知の東西の性質の違いです。
「ボケ」の話の背景には、このような東西の違いがひそんでいます。
つまり欧米において「ボケ」とは
つまり欧米において「ボケ」とは 排除すべき要素 なのです。
どこまでも克明に描く西洋式において、「ボケ」なるハッキリしない要素は、排除すべき「悪」なのです。
写真であれば、画面の隅々まで克明に描きこまれた写真こそが「善」であり、ぼんやりした部分、ハッキリしない部分は排除すべき「悪」なのです。
ですから、「ボケ」に対して良いイメージがないのは当然ですし、「ボケ」を表す言葉に、日本のような積極的な意味がないのも当然です。
グループf/64
そのような事情が「f/64」のような写真家集団を生む背景にもあります。
「f/64」は、ゾーンシステムでも有名な、アンセル・アダムス等が所属した写真家集団で、その「f/64」はラージフォーマットカメラ(大判カメラ)の最小絞りを表しています。
カメラのレンズは絞れば絞るほど(fの値が大きくなればなるほど)ピントの合う範囲が広がり、画面内にボケが少なくなってきます。
その絞りを最小まで絞るということは、ボケを徹底的に排除し、すみずみまで克明な画面を得る、ということです。
その哲学をそのまま表したのが「f/64」というグループ名です。
「f/64」は西洋らしい衝動を実に端的に表しています。
ちなみにこの「f/64」は、現在ではカメラバッグのブランド名として残っていますね。
そのロゴマークは、「絞り込んだ絞り」がそのまま図案化されています。
欧米における「ボケ」のまとめ
では、欧米における「ボケ」の意味についてまとめてみましょう。
- 欧米では物事は「克明」に「分析的」に扱うのがその流儀。
- 欧米において物事をコントロールするやり方は「分割して把握」。
- 分割することによって細かく把握する→ 「感性」よりも「理性」や「合理性」。
- その流儀において、ハッキリしない「ボケ」は排除すべき悪。
- すなわち欧米で「ボケ」には、なんら積極的な意味はない。
これが本来、欧米人が気質として持っている「ボケ」に対する態度です。
写真における「ボケ」の取り扱い【日本編】
では次に、「ボケ」に対する日本人の態度を見てみましょう。
もう言うまでもなく、それは欧米の「ボケ」に対する態度の「正反対」です。
「ボケ」に対する日本の文化的背景
西洋と同じく、宗教施設である「神社」を見てみましょう。
日本の神社は、西洋のように細部で表現するのではなく、やっぱり「全体で表現」です。
日本のあちこちにある神社は、森に囲まれて存在するものが多く、神社の総本山とも言える伊勢神宮もそんな感じです。
森も含めた「環境全て」がその存在の本質であり、全体をひっくるめて「神社」です。
その意図するところは自然(神々)との一体化であり、神々の拠点としてのシンボル的存在です。
材質も木などの自然素材で、その作りは装飾というよりも宗教的意味の組み合わせです。
八百万神(やおよろずのかみ)の存在する自然の中にたたずみ、それらを「包括」するような存在。
それが日本の神社です。
西洋の「分析」とは「一を多に」分割していくことですが、東洋の「包括」は「多を一に」まとめていくことです。
面白いのは、分割を志向する西洋においては、そのバラバラになっていく志向性を取りまとめるために「一つの神(キリスト)」を必要とし、包括を志向する日本においては、その包括されるべき多として「八百万神」を必要とするところ。
宗教における神とは、人間の精神のバランスのための存在ですから、その地方の精神的志向とうまく補完関係になっているわけですね。
「あいまいさ」が好きな日本人
さて、日本人が「あいまいさ」を好むのは、今さら言うまでもない、世界的にも有名な日本人の気質です。
そして、「ボケ」とはすなわち、ハッキリしない「あいまいさ」です。
つまり 日本人がボケを愛するのは至極当然 なのです。
では、そんな「あいまいさ」と「包括的」はどう結びつくのか。
「あいまいさ」と「包括的」の関係
包括的とはすなわち、「ハッキリ決めない」ということです。
有象無象そのままに「全体」で把握するのです。
会社経営において
昭和の頃の日本の会社の経営も、「なあなあ」で流していくのがそのやり方でした。
文書化や明文化ではなく、アフターファイブの「飲みニケーション」で重要事項が決まるというようなやり方でした。
どんぶり勘定なんて言葉もあります。
あいまいなままの「流れ」とか「空気」で物事を進めていくのが、そのやり方です。
そのやり方で世界に類を見ない高度経済成長を成し遂げました。
組織の運営において
日露戦争で連合艦隊の司令長官に抜擢された東郷平八郎は、その「存在感」が買われて、閑職から引き抜かれました。
決して「能力」ではありません。
能力の高い候補はほかにいました。
それよりも、その人がいるだけで組織がうまく回るという、むしろ「何もやらない能力」に長けた東郷を抜擢したのです。
日本の命運を左右する、これ以上ない重大な任務に、「能力」ではなく「存在感」をあてがった。
これが日本のやり方です。
トップにいるべきは、能力でも実力でもなく、全体を総覧し、流れを司る「存在感」だと。
このやり方でロシアのバルチック艦隊を破り、日本を重大な危機から救ったのです。
家屋の作りにおいて
西洋ではどんな細かいところまでもキッチリと把握しないと気が済まないのですが、日本では細部までキッチリしていると逆に居心地が悪いのです。
なぜなら「流れが悪くなる」からです。
スキや遊びがないと、流れが滞り、流れで動かす日本人はコントロールを失います。
家屋を見ると、西洋の家は壁でキッチリと部屋が区切られ、居間、食堂、寝室とキッチリと機能が分けられています。
「個別」に「仕切る」のが西洋流です。
それに対して日本の家屋は、ふすまを開ければ部屋がつながり、同じ部屋が居間にもなり食堂にもなり寝室にもなります。
居間にちゃぶ台を出せば食堂になり、布団を敷けば寝室です。
日本人にとってはこの「流動性」が心地がいいのです。
居心地を最優先すべき「住居」において、これだけの違いがあります。
なにが「居心地がいいか」に、これだけの差があるのです。
ハッキリ区別したがる西洋と、あいまいさを好む日本人は、あらゆる場面にその性質の差を見て取ることができます。
日本における「ボケ」のまとめ
少し話が広がりすぎましたが、日本における「ボケ」の意味についてまとめましょう。
- 日本では物事は「あいまい」に「包括的」に扱うのがその流儀。
- 日本において物事をコントロールするやり方は「全体のまま流れで」。
- あいまいなまま流れで動かす→ 理性よりも「感性」や「読み」。
- その流儀において、ハッキリしない「ボケ」は歓迎すべき善。
- すなわち日本で「ボケ」は、受け入れられるべき要素。
あいまさを好む日本人が、「ボケ」を好むのは当然です。
そして「空気を読む」能力に長けた日本人が、「ボケ」という「空気感の描写を読む」能力に長けているのもまた、当然なのです。
「ボケ」が世界に浸透していることの意味
さて、「Photo Techniques」誌によって紹介された「bokeh」は、世界にその概念が広がりつつあります。
それが意味するのは、東洋的思考の西洋への浸透です。
明治以降、西洋の「科学的・合理的」な考え方は一気に輸入され、日本の隅々、そして世界の隅々にまで行き渡りました。
日常着も和服から洋服にすっかり入れ替わり、住居も今ではすっかり西洋式です。
日本において、また世界においても、西洋的な思考は完全に行き渡ったと言っていいでしょう。
次に世界が動くとしたら、東洋式が西洋に行き渡る番です。
西洋において現在、アニメの席巻は言うまでもないですが、ヨガや武道といった「東洋的」な発想が浸透しつつあります。
ビジネスにおいても日本の「飲みニケーション」が注目されているらしいので、オドロキです。
写真における「ボケ」の世界的な普及も、そういった流れの一環です。
融合しつつある世界の、その流れの一環が「bokeh」なのです。
「ボケ」と作品
さて、「ボケ」の東西の捉え方の違い。
我々の愛する「ボケ」は、実は日本人特有の性質であり、それが世界に広まりつつあるという話でした。
それは、アニメや武道が世界に広まりつつあるのと、基本的には同じ構造です。
「ボケ」の作品化
そんな時代ではありますが、では実際そんな「ボケ」が写真作品において重要なパートを占めるというケースはあるのでしょうか?
いわゆる「out of focus」の意味で、意図的にピントをずらしたような作品は、ちらほら散見されます。
しかし、「bokeh」の意味での「ボケ」を作品にした写真はあるでしょうか?
SNSのタイムライン上にはさんざん溢れかえっている「ボケ」写真ですが、「作品」として認知されている「ボケ」写真は果たしてどれくらいあるでしょうか?
ほとんど皆無です。
写真家の作品において、「ボケ(ボケ味)」がそのコンセプトの根幹をなすことは、ほぼありません。
そうです。
今こそ「ボケ」を作品化する時 なのです。
「ボケ」が世界に浸透してきた、今この時期こそ、「ボケ」が次なるステップへと羽ばたく時期です。
ボケは単なる甘ったるい日本人の好みという「嗜好」の話ではなく、その本質はもっと「精神的」なものでした。
かつては高度経済成長を成し遂げ、バルチック艦隊を破る原動力にもなったのです。
「ボケ」にはもっともっと可能性があるはずです!
「ボケ」の本質に立ち返り、世界に通用する「美意識」にまで昇華させる時期が来たのです。
川内倫子の例
「ボケ」の作品化は、まだ川内倫子くらいです。
参考:写真の縦横比(アスペクト比)の違いは、写真の内容にどう関係するのか?
川内倫子の作風は、レンズやフィルムの「味」さえも作品の一部と化しているようなところがあり、それらが描き出す独特の描写が、独特の作品世界にそのまま直結しています。
まさに日本人ならではの美意識を作品にまで昇華した好例です。
そして「ボケ」の可能性
「ボケ」に対する感受性の高い、我々日本人こそが「ボケ」のさらなる高みへの担い手です。
ただ「なんかイイ感じ」で終わらせるのはもったいない。
「ボケ」にはまだまだ深~い可能性が秘められているのです。
というわけで、ボケにあこがれて一眼レフを買ったみなさん。
喜びましょう。
ボケの楽しみはこれからが本番です。(笑)
【続編はコチラ↓】
第2回
第3回