【ボケの大きい写真が撮りたい!】シリーズ、第3回目は「ピンボケ」を扱います。
第1回:【ボケの大きい写真が撮りたい!】写真において「ボケ」が好まれる仕組み
第2回:【ボケの大きい写真が撮りたい!】本物の「ボケ写真」の撮り方
さて、写真のボケには3種類ありましたね。
- bokeh=ボケ味。鑑賞すべき「ボケ」。
- blur=ただ単に写真上のハッキリ写っていない部分。ブレも一緒くた。
- out of focus=本来合うべきピントが合っていない。いわゆるピンボケ。
この並びは、そのままボケの良否の順序でもあります。
- bokeh=良い意味でのボケ
- blur=良くも悪くもないボケ
- out of focus=悪い意味でのボケ
同じ「ボケ」でも、bokehはうっとりと観賞すべきボケですし、out of focus(ピンボケ)は文字通り「アウトだろ」というボケです。
しかし、そんなアウトなボケも、実は 表現に生かすことができます。
アウトであるがゆえの表現には、セーフにはない魅力と醍醐味があります。
今回はそんな、ボケの「アウトロー」な使い方について。
目次
芸術における「完成」→「破壊」の流れ
ピントは「合っているべきもの」。
それが写真。
この認識は、写真創生以来のほとんど「あたりまえ」とも言うべき認識です。
しかし「表現」というものは、まず完成を目指して山を登り続けるわけですが、いったん完成をみたならば、次は山を下りるのがならわしです。
つまり、「完成」したら、次は「破壊」です。
これがあらゆる表現における、流れの順序です。
そのことをまず、芸術の二大表現、「絵画」と「音楽」から確認してみましょう。
絵画の場合
絵画(西洋美術)の場合、初めはいかに「現実に近づけるか」の努力がなされてきました。
絵の良し悪しは「どれだけリアルか」と、ほぼイコールでした。
まあまあ。
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うまくなり、
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さらにうまくなり、
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もっとうまくなり、
ほぼ完成に達したかな〜と思うと、、、
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やや崩れ始め、
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さらに崩れ始め、
↓↓↓
もっと崩れ始め、
↓↓↓
もはやよくわからなくなる。
この「登って下る」流れは、あらゆる芸術のジャンルで当てはまります。
西洋美術ではこのあとさらに、もはや自分で作らないマルセル・デュシャンの「レディ・メイド」のような流れも登場します。
参考:アートと呼ばれる写真と、そうでない写真は一体何が違うのか?
音楽の場合
音楽(西洋音楽)の場合はどうでしょうか。
初めは単音のつながりであるメロディーから始まり、
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メロディーとメロディーが重なってハーモニーが生まれ、
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ハーモニーの文法、いわゆる調性音楽が整備され(ハ長調とかニ短調とかのアレ)、
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文法を自由自在に使いこなせるようになると、次は徐々にそこからはみ出し始めます。(このあたりが山の頂上)
音階から外れた不協和音を多用し始め、
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全ての音階を均等に扱う12音音楽が登場し、
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無調になり、
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最終的には、もはや演奏もしない、ジョン・ケージの「4分33秒」のような作品も登場します。
どんなジャンルであれ、まずは完成を目指し、完成したら壊すという流れをたどります。
では写真の場合はどうでしょうか。
写真の場合
写真の場合も、基本的に同じ流れです。
写真の場合は、「カメラ(レンズ)」と「感光材料」というテクノロジーの進歩と歩調を合わせて、画像はよりシャープに高解像度になり、モノクロはカラーになり、カラーの再現性はどんどん向上し、「よく写る」という意味では、ほとんど必要十分な画質は達成しました。
完成した画質が次に向かう流れは、「壊す」方向です。
すなわち、高解像度、豊かな階調、再現性の高い色調といった「高い完成度」を捨てて、いわゆる「アレ・ブレ・ボケ」を志向する表現です。
デジタル時代の現在では、jpegのブロックノイズを作品化した、トーマス・ルフの「jpeg」のような作品もあります。
ちなみにこのトーマス・ルフの「jpeg」に使われている写真は、作家自身が撮ったものではなく、インターネットから拾ってきた画像です。
写真においてもやはり、「もはや自分で撮らない」という流れは、しっかりと踏襲されていました。
これは自分で作らないマルセル・デュシャンや、演奏しないジョン・ケージと完全に同じ流れです。
写真における「アレ・ブレ・ボケ」
さて、写真において高解像度、豊かな階調、再現性の高い色調といった「高い完成度」を、どんどん捨てていく過程。
つまり「山を下る」過程は、写真の場合「アレ・ブレ・ボケ」などと言われます。
アレ
「アレ」は高解像度の逆、画像が「荒れている」ということです。
ブレ
「ブレ」は文字通りブレ、手ブレや被写体ブレです。
これも画質にとっては本来排除されるべき要素です。
ボケ
そして「ボケ」。
この「ボケ」は、もちろんピントが合ってないという意味でのボケ、つまり「out of focus」の意味でのボケです。
写真は本来「ピントが合っているべきもの」という本来性へのアンチテーゼの意味の「ボケ」です。
「アレ・ブレ・ボケ」発生の時期
では、写真においてこの「アレ・ブレ・ボケ」が発生した時期、すなわち写真が「完成」→「破壊」と山を下りはじめたタイミングはいつでしょうか?
「アレ・ブレ・ボケ」をメジャー化した、ウィリアム・クラインの「New York」が刊行されたのは1956年です。
そして日本においては、「アレ・ブレ・ボケ」の代名詞とも言える写真同人誌、「プロヴォーク」が創刊されたのは1968年です。
つまり前世紀の半ばには、もうその動きはありました。
「out of focus」の写真的表現は、実は結構古いのです。
そうです。
「out of focus」は実は今どき、悪でも何でもない時代 だったのです。
「アレ・ブレ・ボケ」とロックミュージックの関連
ところで1950年代、60年代といえば、ロックミュージックが流行り始めた頃ですね。
エルヴィス・プレスリーやバディ・ホリー、ビートルズの時代です。
「アレ・ブレ・ボケ」とロックミュージックは、発生のタイミングも近いですが、表現のテイストもかなり近いです。
ご存知の通りロックの出始めは、大人たちに白い目で見られるような音楽でした。
まさに「悪ガキ」の音楽です。
どこかアウトローな感じ、はみ出してる感じ、収まらない感じです。
その「アウトロー感」は、やはり「アレ・ブレ・ボケ」も同様です。
そして出始めにおいて、いわゆる「大人な」好事家たちに猛反発を食らう点も同様です。
その作風の第一人者である森山大道ですら、出始めは以下の通りです。
僕の知り合いの年配のアマチュアカメラマンは、森山さんがデビューする前からずっと『アサヒカメラ』を定期購読していたんだけど、彼の写真が『アサヒカメラ』に載るようになって、一時『アサヒカメラ』を取るのを止めてしまったんだ。「あんな汚い写真が載ってる雑誌はいらん!」ってね(笑)。こういう反応は他にもいっぱいあったんじゃないかな。
Photologue – 飯沢耕太郎の写真談話
また、上記のページには、
同時に若い人たちにとってはカリスマ的な写真家だった。
とも書いてあります。
大人からは白眼視され、若者に熱狂的に支持されるという構図も、まるっきりロックそのままです。
「アレ・ブレ・ボケ」とロックの共通点
そんな両者が似ている理由は、両者ともそれぞれのジャンルにおいて、「アウト」な要素を表現に取り入れているからです。
ロックがロックに聞こえる理由は、西洋音楽のシステムにおいては「禁則」とも言える「ドミナント→サブドミナント」というコード進行を用いている点と、音階にはない♭7度の音程を和音に付加している点です。
「はみ出してる感じ」はもはや「感じ」ではなく、本当にはみ出しているのです。
つまりロックは、印象の上からも理屈の上からも、「型破り」なのです。
同じく「アレ・ブレ・ボケ」も、高解像度、豊かな階調、再現性の高い色調といった写真の本道に対して 全く逆を行っています。
そのロックな印象は、理屈の上からいっても、やはり「型破り」です。
そもそも「out of focus」という言葉がすでに、「アウトなフォーカス」です。
HIROMIXとロック
それまでの写真の「型」を大胆にぶっ壊して、写真界に革命を起こしたHIROMIXも、グランプリを受賞した写真新世紀のARTIST STATMENTに「ROCK IS MY LIFE」と書いてます。
HIROMIXの写真も「アレ・ブレ・ボケ」をいとわない、奔放な撮り口が身上です。
つまり 写真におけるロックな表現。
それが「アレ」「ブレ」、そして out of focus な「ボケ」です。
out of focus な「ピンボケ」を写真に生かす
「な~んだ、写真はボケててもいいのか」
ホッとされた方も実は多いのではないでしょうか?(笑)
前回もピントをシャッキリさせろ、みたいな話でしたし、写真教室なんかにいっても「ピントピント」としつこく言われていたかもしれません。
それはもちろん、ピントが合っていることが「王道」だからですが、写真に限らずあらゆる表現は、王道とともにそこからはみ出すアウトローな表現も必ずあります。
クラシックに対するロックがそうですし、絵画においても写実主義全盛の中から印象派が生まれたりしています。
表現の2種類の志向性とその関係
表現には山を「登る」志向性、頂点に集約する志向性とともに、山を「下る」志向性、頂点から拡散していく志向性もあります。
物事には必ず二面性があり、相反するそれらの性質のせめぎ合いの中に、実は表現の妙味は存在します。
ロックも印象派もHIROMIXも、それまでの「王道」に異を唱えたわけですが、それらは「王道」という比較対象があってはじめて、その飛翔度が推し量れるのです。
そしてまた「王道」という、反作用を受け止める固い地面があるからこそ、高く飛翔できるのです。
信じられぬ大人との争いも、この支配からの卒業も、対象となる「大人」や「支配」がないことには、そもそも成立しません。
対立する「大人」や「支配」がないことには、ちっとも卒業などできやしませんし、卒業のできない卒業はもはや卒業ではありません。
「王道」と「アウトロー」は、お互いにとってお互いが必要な存在なのです。
「ピントは合っているべきもの」という「あたりまえ」は、「out of focus」という表現にとっては欠かせない土台です。
そして我々には「あたりまえ」を選択する以外にも、そこからはみ出すロックな撮り方も許されているのです。
out of focus な写真の意義
ではそんな out of focus な表現において、ロッカーたる撮り手がやるべきことは何でしょうか?
それは「ピントが合っている」を超えることです。
ピントが合っている写真を超えなければ、ピントを外す意味がありません。
「な~んだ、写真はボケててもいいのか」
と、安心するのはまだ早いのです。
いいですよ、写真は、ボケてても。
それが合焦という常識を超えるなら、ね。(笑)
まとめ
さて今回は、「out of focus」の意味でのボケ、つまり「ピンボケ」についてのお話でした。
ピンボケは悪、必ず排除すべき要素という認識が一般的ですが、それが一般的であるがゆえに、逆にそれを逆手に取った表現が可能になります。
それはつまり、「一般的」から外れる表現、つまり「アウトロー」な表現です。
アレ、ブレもひっくるめた「アレ・ブレ・ボケ」は、そんなロックな皆さんにとっての、写真における表現方法です。
ピント、露出、構図、、、まったく写真ってヤツは合わせるべき要素が多くて息がつまるぜ。。
そんなロックな皆さん。
盗んだバイクで走り出す必要はありません。
写真において常識からはみ出す手段は、ピントリングのミリ単位の動きで事足ります。
「out of focus」=「合焦という常識を飛び出せ」
「合わせる」だけが写真じゃない。
写真において「はみ出す」ことは、いつでも可能 です。
【「ボケ」シリーズ】
第1回
第2回