みなさんは日々いい写真を撮りたいと思っているわけですが、ではその「いい写真」って一体なんでしょう?
キレイな写真、すごい写真、グッと来る写真。
あるいは完璧な写真、「いいね!」がたくさん付く写真、売れる写真。
いろんな定義があると思いますが、実際はとても漠然としています。
みなさんも実際のところは「コレ」という明確な定義があるわけではなく、「何がいい写真なんだろう」という模索とともに、日々撮っているのが現状ではないでしょうか。
「いい写真」
この数語に含まれる意味は、とてつもなく広く、深いものがあります。
今回はそんな、普段は漠然としか捉えていない「いい写真」を掘り下げてみましょう。
いい写真とは結局何なのか!?
目次
いい写真の基準とは
まず始めに、「いい写真」なるものの客観的な基準は存在しません。
写真にはテストの答案みたいに、正解、不正解はありません。
点も付けられなければ、達成度を測る尺度もありません。
よく言われるように、「いい写真」についての見解は、百人百様です。
ですから、ここで探る「いい写真」は、「自分にとっての」です。
他人の見解は参考にはなるかもしれませんが、結局あなたにとって大事なのは、あなた自身の見解です。
他人の見解を採用するにしても、結局自分の意思によってです。
「いい写真って何かがわからなければ、いい写真を撮ることもできない」
「そのためにいい写真とは何かを知りたい」
そんなごく一般的な疑問を、ここでは解き明かしていきましょう。
いい写真の共通点
いい写真。
単純にキレイだからいい写真というわけではありませんし、下手だからダメな写真というわけでもありません。
「いい」には美醜や上手い下手を超えた何かがあることは、みなさんも感じていることでしょう。
いい写真には、何の基準も見出すことができません。
いい写真には、あらゆるテイスト、あらゆるスタイル、あらゆる作風が含まれています。
みなさんの経験からいっても、いい写真に客観的な共通項を見出すことはむずかしいでしょう。
いい写真とはコレだ!とスパッと言えれば楽かもしれませんが、そういうことは全く不可能なように思えます。
ただ言えるひとつの共通点。
それは、その写真が「いい」って思えることだけです。(笑)
いい写真は、「いいって思える」という点でだけ、共通しています。
そしてその「いい」は、「まあまあいい」から「すごくいい!」まで、幅広くあります。
そして「何について」いいのかも、「色味が素敵」とか「シャッタータイミングが素晴らしい」とか「モデルが綺麗」とか、いろいろあります。
なおかつ、昔はいいと思わなかったけど今はよかったり、逆に昔はいいと思ってたけど、今はよくなかったりします。
「いい」なるものは、実につかみどころの無いものです。
いい写真とは何か
しかし、その「いい」は、あなたの中に、わりとハッキリあるのではないでしょうか。
「あー、これはいい写真だ」と、わりとハッキリ、ほぼ見た瞬間に感じるのではないでしょうか。
そういう意味でいい写真とは、実はとても簡単です。(笑)
「あなたがいいと思った写真」
それがあなたにとってのいい写真です。
「いい写真とは何か?」が難しいのは、それを定義づけようとするからです。
「いい写真とは~である」と、言葉で説明しようとしたり、一般化しようとするから、難しいのです。
そしてなぜ、そういうことをしたくなるのかといえば、
- あいまいなことが気持ち悪いからハッキリさせたい
- 「自分がそう思う」だけでは根拠が弱すぎるから何かお墨付きが欲しい
という理由が挙げられます。
しかし、そんなことをしなければ、いい写真はとても簡単です。
「いい写真」は「あなたがいいと思った写真」
それだけです。(笑)
というか、それしかありません。
いい写真がわからない理由
定義づけようとしたり、ハッキリさせたくなることの裏には、自分の「いい」を信じられないという理由もあります。
「いい写真は自分がいいと思った写真。以上!」
これで済めばコトは単純ですが、「自分の感じる『いい』は、本当に『いい』なのか!?」と、まあ普通なら疑問に思いますね。
ハッキリした答えが欲しい、何かお墨付きが欲しい、そういう心理が働きます。
そこで、自分の中の「いい」を差し置いて、大御所の言葉を調べたり、誰かに聞いて回ったりします。
その結果、ある写真を見て「いい写真かどうかわからない」「自分には何もわかりません」ということも起こりえます。
しかし目と心があるなら、ある写真を見て自分の内から何の印象も湧き上がらないということはありません。
- 「いい」が湧き上がらなかったら、それは「いい」ではない写真
- 「いい」が湧き上がったら、それは「いい」である写真
それだけです。
「いい」が1枚も無くてもいいし、全部が「いい」であっても構いません。
全部が「まあまあ」でもいいでしょう。
にもかかわらず「わからない」という場合、そこには以下のような心理が働いていることが考えられます。
- 自分のような素人には何もわからない
- 何の素養も無いので何も言えない
- 自分の意見に自信がない
- 下手なことを言うとバカにされる
- 何か気が引ける
つまり、自分の意見はあるけど、それを表に出したくない、ということです。
これを「わからない」と混同してはいけません。
本当はわかっています、自分にとってその写真がどうであるか。
ただ、それを表沙汰にしたくない、というだけです。
- みんながすごく褒めるんだけど、自分はちっともいいと思わない
- 自分の意見がとてもくだらなく、弱く感じる
- そもそも写真に興味がないので、どの写真を見ても「いい」とは思わない
といった時、自分の本心を表に出すのは、憚られます。
しかし、「わかっているけど言いたくない」と「わからない」を混同してはいけません。
誰であっても、その写真に対する何らかの印象は、必ずあるはずです。
その印象に「いい」が含まれていればいい写真ですし、「なんとも思わない」であれば、そういう写真です。
それを表に発表する・しないは別として、あなたの内から湧き上がるそれは、確認すればちゃんとあるはずです。
大御所が撮った、世の中大絶賛の写真でも、ちっともいいと思わない場合もあるでしょう。(そんなのいっぱいありますね 笑)
また、だれにも褒めてもらえないけど、自分ひとりこっそりいいと思っている写真もあるでしょう。(これまたいっぱいありますね 笑)
その意見を発表したくなくても、その意見があること自体は否定できません。
本心は、いちいち発表する必要はありません。
ただし、自分だけは知っていてください。
それがあなたにとっての「いい写真」ですから。
いい写真がわからなくなるのは、外に基準を求めるからです。
外に基準を求めて、自分の内から湧き上がる本心を無視するから、わからなくなります。
いい写真を外に求めても無駄です。
そこにあなたにとっての「いい写真」はありません。
いい写真はあなたの内に必ずあるはずであり、そこ以外で見つかることはありません。
いい写真がむずかしい理由
「いい写真」ってなんだろう。
写真をはじめたならば、必ずぶつかる疑問ですね。
その回答を、まずは「外」に探しにいきます。
著名な写真家が言っていること、先輩が言っていること、本に書いてあること。
外に求めるのは、自分が「知らない」と思っているからです。
しかし、あなたにとってのいい写真を知っているのは、どう考えてもあなただけです。(笑)
どんなに自信がなくても、どんなにショボく見えても、あなたが「いい」と思ったそれが、あなたにとってのいい写真です。
大御所の言っていること、大先生の言っていることは、どんなに素晴らしく圧倒的に見えても、「あなたの」ものではありません。
もちろん、外に探しにいくことは大いに結構ですが、どこまでいっても、どれだけそれらしい回答を掻き集めても、最終的にはあなたにとってのいい写真は、あなたの内にあるそれ以外にはあり得ません。
「いい写真ってなんだろうね~、むずかしいよなー」
「いい写真」がむずかしいのは、
- 自分の外という答えのない場所に答えを探しているから
であり、
- 自分の内に見つかるその答えは言語化できないものだから
です。
それはつまり、
- 自分の中の「いい」を信じること
- 言語化できない曖昧さを受け入れること
これがむずかしい、ということでもあります。
いい写真はとてもシンプルです。
「いいと思った写真」
もうほとんどそのまんまです。
しかし逆にシンプルすぎるのです。
シンプルすぎるがゆえに、むずかしくしないと把握した気になれないのです。
「とても簡単なことをむずかしくしている」
そこに気づいたなら、いい写真は本来のシンプルさを取り戻すことができるでしょう。
まとめ
さて、簡単すぎて拍子抜けだったかもしれない「いい写真」。
いい写真は簡単すぎてむずかしいのです。(笑)
いい写真とは
いい写真とは「あなたがいいと思った写真」です。
そのまんまです。(笑)
いい写真がむずかしい理由1
そしていい写真がむずかしくなる理由は、いい写真を一般化、言語化しようとするからです。
いい写真の「いい」には、
- 「いい」の度合い
- どの要素が「いい」のか
- いつその写真を見たかという時間的要素
- どこで見たかという環境的要素
などなど、いろんな要素が絡み合うので、一般化はほぼ不可能です。
そんな中でただひとつ、間違いのない要素。
それは、あなたの内から湧き上がる「いい」です。
いつ、どこで、どんな写真を見ようとも、そのときあなたの内から「いい」が湧き上がったなら、それがすなわち「いい写真」です。
いい写真がむずかしい理由2
そしていい写真がむずかしくなるもうひとつの理由。
それは自分の「いい」を信じることがむずかしい、ということです。
「自分の『いい』は、本当に『いい』なのか!?」
これは誰にも保証してもらえません。
保証はありませんが、いいかどうかは自分でわかります。
なぜならそれは「いい」と思ったからです。(笑)
いいと思ったから、いいが湧き上がったのです。
湧き上がったそれが「いい」なのか、他の何かなのかは、自分でわかります。
わかりますがしかし、とてもちっぽけで弱々しく見えることもあります。
だから保証が欲しくなるわけですが、保証があろうとなかろうと、あなたが「いい」と思ったことは事実であり、あなたがいいと思った写真がすなわち「いい写真」であることもまた事実です。
とてもシンプルな話ですね。
いい写真は誰かに教えてもらうものではなく、あなただけが知っていることです。
それはいつでもあなたの中で、あなたに見つけてもらうのを待っています。
【続編】