ヴィヴィアン・マイヤーといえば、モノクロによるストリートフォトが有名です。
彼女の有名な写真はほとんどが、50~60年代のシカゴなどの街角をモノクロで撮ったものです。
今回はそんな彼女のあえてのカラー写真集「Vivian Maier : The Color Work」を紹介します。
いったいカラーとモノクロで、表現はどう変わるのでしょうか。
というか彼女の場合、カラーとモノクロで表現が変わるわけではありません。
カラーであろうとモノクロであろうと、表現自体は一緒です。
変わるのは表現云々ではなく、写真の意味そのものです。
ヴィヴィアン・マイヤーといえばモノクロの人という認識が一般的ですが、実はカラーによってこそ初めて、彼女の真の魅力が明らかになるのです。
どういうことなのか、さっそく見ていきましょう。
目次
ヴィヴィアン・マイヤーにとってのカラー写真
ヴィヴィアン・マイヤーといえば、モノクロによるストリートフォトがその真骨頂とされています。
彼女のアイコニックなビジュアルはほとんど、ローライによるスクエアなモノクロ写真です。
むしろ「カラーも撮ってたんだ」って思われるかもしれません。
実際筆者も、「あ、カラーも撮ってんだ」なんて思いました、最初。
しかし、このヴィヴィアンの個性 × カラーという組み合わせが、実に面白い化学反応を生むわけです。
モノクロ写真とカラー写真の違い
まずは、モノクロ写真とカラー写真の違いからおさらいしましょう。
(こちらもご参照ください↓)
基本的に70年代頃までは、「アート=モノクロ」という図式が一般的でした。
モノクロ写真はそれだけで「アート」な印象がありますが、それはその「抽象性」によるところが大きいです。
たとえば植田正治の写真は、モノクロの抽象性によって成立している部分がかなりあります。
これがカラーだったら、そのリアルさゆえに「え?この人たち何やってんの?」と、少々興ざめになること請け合いです。(笑)
モノクロはその抽象性によって、リアルな存在感が希薄になります。
どこか遠くにあるもの、どこか空想のような、生活感のない印象になります。
「言葉」に例えるなら、カラーは日常会話で、モノクロは詩です。
同じ言葉であっても、日常会話と詩では、印象がまるで異なります。
そしてヴィヴィアン ・マイヤーにおいて評価され、賞賛を得ているのは、彼女のモノクロ写真です。
独特の感性がモノクロの抽象性によって、詩的なアートという見え方を獲得しているのです。
ヴィヴィアン・マイヤーといえば「50~60年代のストリートを独特の感性でモノクロかつスクエアに切り取った写真家」というイメージが一般的であり、カラーという印象はほとんどありません。
そんな中での、カラーによる写真集。
詩的な印象から日常着に衣替えした写真たちは、いったいどのような見え方になるのか、興味深いところです。
ソール・ライターとの比較
さて、カラーによるストリートフォトの大家には、ソール・ライターがいます。
彼はアートとしての写真をカラーで撮る人がほとんどいなかった時代に、カラーでストリートを撮っています。
ヴィヴィアン ・マイヤーとソール・ライターは、カラーでストリートを撮っているという点では同じです。
それだけでなく、撮った写真がかなり後になって発見された点や、地位や名声に無関心であった点なども似ています。
そんな二人の決定的な違いは、ソール・ライターは生粋のアーティストであり、ヴィヴィアン ・マイヤーは生粋の趣味人である、ということです。
見比べていただくとわかりますが、ソール・ライターの写真は、アートを志向しています。
明らかに「絵であろう」と志向しています。
もともと画家志望で、「フィルムというキャンバスに絵を描いている人」と、記事でも紹介しました。
そしてまた、彼の写真はカラー前提で撮られています。
誰もがモノクロ(写真)のみが重要であると信じていることが不思議でたまらない。
まったく馬鹿げている。美術の歴史は色彩の歴史だ。
洞窟の壁画にさえ色彩が施されているというのに…。
とは、彼の言葉です。
画家志望であった彼は、絵具とキャンバスの代わりにカメラとフィルムを使って絵を描いていたのです。
そして美術の歴史は色彩の歴史です。
ソール・ライターにおける「カラー」は、必然の選択であり、それ含めてすべてがまとまった、彼のアートです。
ヴィヴィアン・マイヤーのカラー写真
対してヴィヴィアン・マイヤーの場合は、彼女のアート写真としての評価の基盤はモノクロです。
アマゾンの評価でも、彼女の写真集を買うならばカラーではなくモノクロをまず買うべし、みたいなことが書いてあり、実際それは当たっているでしょう。
彼女を理解するためには、モノクロの有名どころのショットが含まれる写真集から入るのが順当です。
では、彼女のカラー写真の立ち位置とは、どういうものでしょう。
ソール・ライターのカラー写真は、それ含めてすべてがまとまった「アート」であり、逆に彼のモノクロ写真はほとんど知られていません。
そして、ヴィヴィアン・マイヤーの場合は、モノクロ写真こそが彼女の評価の基盤であり、逆にカラー写真はほとんど知られていません。
そんな彼女のカラー写真とは、言ってみればモノクロで撮ってたそのまんまを、カラーにしたようなものです。(笑)
別にカラーだろうとモノクロだろうと関係ないのです。
彼女は「アート」をしていたわけではなく、「ただ撮っていた」だけですから。
ソール・ライターは生粋のアーティストでしたが、ヴィヴィアン・マイヤーは生粋の趣味人です。
単純に時代がモノクロフィルムからカラーフィルムに移行してきたので、その流れでカラーフィルムを使っていただけです。
別にフィルムにこだわりはありません。
ただ単に、今そこにあるフィルムを使っていただけです。
実際、50~60年代はほとんどモノクロで撮っていますが、カラーが出回り始めた70年代からカラー写真が多くなります。
写真集に収められているカラー写真も、ほとんどが70年代のものです。
ソール・ライターの場合が、まだカラーが珍しかった50年代に、あえてカラーフィルムを使っているのとは対照的です。
同じカラーのストリートフォトであっても、両者はこの点が違います。
ソール・ライターのカラーは意図的であり、ヴィヴィアン・マイヤーのカラーは恣意的です。
ヴィヴィアン・マイヤーにとって、カラーであるかモノクロであるかはあんまり関係がなくて、ただ単にその時点で入手できるフィルムを使っていただけです。
それよりも大事なのは、「撮るという行為」そのもの。
これが、ヴィヴィアン・マイヤーにおけるカラー写真の立ち位置です。
つまり、カラーでもモノクロでもどっちでもいい、ということです。
普通は、こだわってカラー、あるいはこだわってモノクロですが、彼女の場合は「どっちでもいい」。
融通無碍、天衣無縫な彼女のキャラクターは、この点においても遺憾なく発揮されているわけです。
ヴィヴィアン・マイヤーにおけるカラー写真の意味
さて、そんなヴィヴィアン・マイヤーのカラー写真。
カラーでもモノクロでも、同じように撮っていたわけですから、当然内容は同じです。
違うのは「見え方」のみです。
モノクロの場合はその「抽象性」により、アートっぽく見えていたわけですが、カラーの場合はその「リアル性」により、日常的に見えます。
つまり「普通」です。
そして彼女の撮り方は、面白いと思う場面を何の衒いもなく「ただ撮る」という撮り方です。
そうすると「ただ撮る撮り方×普通の見え方」が、彼女のカラー写真の特徴となります。
…それって何でしょう、何かに似ていませんか?
そうです、写メです。
「70年代の写メ」
これが今回の写真集「Vivian Maier : The Color Work」を、一言で言い表した言葉です。(笑)
Vivian Maier : The Color Workの面白さ
さて、そんな写メ写真集の一体何が面白いのでしょう。
実際、全然面白くないと思う人も、少なからずいるはずです。
(いやむしろ、そっちの人のほうが多いかも)
ただ新聞紙を撮っていたり、ただ看板を撮っていたりします。
「だから何!?」というカットも、少なくありません。
ハッキリ言ってヴィヴィアン・マイヤーは、カラー写真だけだったらおそらく現在のような評価は得ていないでしょう。
「あーなんか面白いね」とか「あはは!いいね!」で終わっていた可能性は大です。
彼女の評価はやはり、モノクロの「アート性」による作用が大きいのです。
カラーの場合、彼女の写真は「写メ」に近くなります。
つまり、より「普通っぽく」なります。
確かに面白い写真もたくさんありますが、それらはモノクロのような深みを与えられることなく、カラー的日常感のまま、スーッと見る人の視線を通過していってしまう…。
まさに「写メ」です。
この写真集の立ち位置も、モノクロでの評価が確定し、世界的名声を得たのちに、「こんなのもあるよ」的に出してきた、いわゆる変化球です。
メインストリームではない、傍流であり、バリエーションです。
好きな人だけが見なよ的な、「おまけ」であり「ついで」です。
そんなおまけ的ついで的写真集をあえてここで採り上げているのは、実はこの写真集こそが、今この時代においてとても意義深いと感じるからです。
それこそが、今回言わんとするヴィヴィアン・マイヤーのカラー写真の核心です。
以下この点を突っ込んで見ていってみましょう。
Vivian Maier : The Color Workの意味
ところで写メ的写真集といえば、HIROMIXの「girls blue」が思い出されるわけですが、それとこれとはまた全然違います。
HIROMIXの「girls blue」は革命であり、フィーバーであり、フェスティバルです。
HIROMIXの写真は、表現への熱い思いが横溢していますが、ヴィヴィアン・マイヤーの場合は、もっと冷めています。淡々としています。
ただ撮っているだけですから。
また、両者ともに自撮りが多い点でも似通っていますが、HIROMIXの場合は「撮られている」自撮りであるのに対し、ヴィヴィアン・マイヤーの場合は「撮っている」自撮りです。
自撮りは、撮る側と撮られる側、一人二役ですが、どちらに表現の比重があるかによって、意味が違います。
HIROMIXは被写体としての自分に主体があり、ヴィヴィアン・マイヤーは撮っている自分に主体があります。
この点でも両者は180°逆です。
同じ写メ的写真集であっても、ベクトルの向きが180°逆です。
まるっきり存在感の意味が違います。
HIROMIXは自らの表現に写メ的手法を利用した、と言えますが、ヴィヴィアン・マイヤーの場合はリアルに写メです。(笑)
表現とかなんとかじゃありません。
リアルに、写メです。
写メとの違いは、フィルムで撮っているところです。
フィルムの質感が、なにがしの印象をその写真に与えているのは事実です。
これがデジタルだったら、より救いがたく写メだったことでしょう。(笑)
「写メ」の意味
さっきから写メ写メとしつこいわけですが、写メだったらいったい何なんだよ、ということで写メの意味ですが、それは「普通」です。(笑)
あくまで、普通です。
とことん、普通です。
どこまでも、普通です。
カラーによって日常感を増した、ただ撮っただけの写真。
それはすなわち、普通です。
なんにもすごいことは、ありません。
写真集に求められるような、なにがしのインパクト、キャッチーさ、ウリ、そして昨今の「インスタ映え」とも全く無縁です。
いったいそんな「普通」の価値って、何でしょうか?
それは、「普通じゃない」が価値とされる中で、「普通でいい」という強烈なステートメントです。
インスタ映えな世相への、強烈なカウンターパンチです。
みんな非凡を求めます、リア充を求めます、インスタ映えを求めます。
私は普通じゃないんだぞと、「普通じゃなさ」をアピールします。
写真もせっせと加工して、なるべく非凡を目指します。
そしてそういう写真にこそ、「いいね!」がたくさん付きます。
単なる写メには、「いいね!」は付きません。
目に見えるいいねの数は、その写真の価値を代弁しているようです。
「おお、すごくいいねがたくさん付いてる。どれどれ、おお!確かにすごい写真だ!」
「普通」は避けるべきもの、価値がないもの、意味がないもの。
そんな風潮が形成されています。
「普通じゃない」が普通になる時、「普通」は普通じゃなくなります。(笑)
今や、「普通じゃない」が普通の世の中です。
皆が普通じゃないを目指し、どうすれば普通じゃなくなれるかが共有され、普通じゃないはもはや普通です。
だからこその「普通」です。
「普通じゃない」にどっぷり浸かっているからこそ、普通の良さ、新鮮さ、味わいに気付くのです。
フッと、肩の力が抜けます。
見る人が見るタイミングで見れば、そこに何かが見えるはずです。
頑張って、背伸びして、自分じゃないものになろうとしていたけれど、「あ、全然自分でいいんだ」と、ポッカリ気付く可能性があるのです。
「普通」の意味
以前の記事でも紹介しましたが、ヴィヴィアン・マイヤーという人は、非凡の人です。
天才肌です。
「あっ!」という場面を目ざとく見つけ、それをストレートにモノにする天才です。
ハッキリ言って彼女の才能は、普通じゃありません。(笑)
その写真は、絶対と言っていいほど、誰にでも撮れるものではありません。
しかし、写真は「普通」です。
彼女は何の背伸びもしていないし、無理もしていません。
呼吸するように写真を撮っています。
彼女にとって写真を撮ることは、衣食住と同じように普通のことです。
センスが光る写真もあれば「?」な写真もあります。
人も撮ればモノも撮る、風景もあれば自撮りもある。
ごちゃまぜに何でもあるのは、「あ」って思ったものをただ撮ったからです。
何のテーマもないし、主義主張も哲学もありません。
普通じゃなくするために、何かをするということはありません。
逆に普通であるために、何かをするということもありません。
普通を追求して、普通じゃないものを切り捨てることもしないのです。
だから玉石混淆、甲乙丙丁、何でもありのごちゃまぜなのです。
「すげー!」っていうものもあれば、「なにこれ?」っていうものもある。
それが真実ありのままのリアルであり、手を加えないそのままです。
ただ撮った。
以上、終わり。
何の調整も体裁もありません。
非凡な才能ではありますが、写真はどこまでも自然体で普通です。
そしてその非凡さによって、写真を面白く見せてくれる。
普通でありながら、非凡。
天才が撮った普通の写真。
普通は「普通」の素晴らしさに気付くことはできません。だって普通だから。(笑)
普通が普通に普通のままだったら、普通すぎてとても素晴らしいなんて思えないでしょう。
そこを気付かせてくれるのが、彼女の天才たるゆえんです。
彼女は天才であるがゆえに、普通を普通のままに、素晴らしいものとして提示することができるのです。
Vivian Maier : The Color Workの真の魅力
というわけで、ヴィヴィアン・マイヤーの「The Color Work」を概観しました。
この写真集はめちゃめちゃ面白いし、ある意味痛快です。個人的には。
「おお!」っていう決定的瞬間や面白い構図も多数ありますが、「ヤッタゼ!!」と拍手喝采したくなるような、マジどうでもいい写真が結構収められています。(笑)
なので、完成度の高いアートを望む向きには、全くオススメできません。
これは写真を鑑賞する写真集ではありません。
それよりも、ホッとさせてくれるのです。
くつろがせてくれるのです。
「こんなんでいいんだ」と安心させてくれるのです。
「あなたも自分で居ろよ」と勇気づけてくれるのです。
「映えこそすべて」みたいな風潮の中にいると、疲れます。皆が背伸びを強いられます。
「普通であること」に、いいね!は全然付きません。
その結果「それは否定されること?」と、誤解が生まれます。
「普通はダメなのかしら…」
そんなあなたに、マジどうでもいい写真たちは語り掛けます。
「堂々と自分自身で居ろ」と。
写真を見せたい、そしてたくさんの人に褒められたい、いいねもたくさん欲しい。
そんな当たり前な衝動とは無縁だったヴィヴィアン・マイヤー。
生前は撮った写真を一切誰にも見せなかった。
誰の承認もいらない。
いいねなんていらない。
自分は自分。
それでいい。
誰の目も気にしないで撮った写真たち。
人の目を気にしないで、100%自分らしく撮った写真たち。
あなたはそれを見て、何を感じるだろうか。