【写真家って何?】「写真を撮る人」と「写真家」の違いは?

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写真家

世の中にはステキな写真を撮る人がいっぱいいますね。

フリッカーやインスタグラムにはそんな写真があふれていて、ネット環境の充実で、そんなステキな写真を私たちはいつでもどこでも見ることができます。

さて、そんなステキな写真を「撮る人」たちですが、世の中には「写真家」と呼ばれる人と、そうではなく、何とも呼ばれない「ただの人」がいますね。

インスタグラムで何千人ものフォロワーがいる、とってもステキな写真を撮る人たちは大勢いますが、多くは何とも呼ばれない「ただの人」、あるいは言うなれば「インスタグラマー」です。

その一方で「写真家」と呼ばれる人、個展を開いたり何かの賞にノミネートされるような、「アーティスト」とか「巨匠」みたいなイメージの人たちもいます。

しかしこの両者、撮っている写真自体は大して変わりありません。(少なくとも表面上は)

両者の写真を並べてみたところで、ほとんど区別はつかないと思います。

では、同じような写真を撮る人でありながら、このような「棲み分け」は、一体どのようにしてなされるのか。

「写真家」というものは、実際非常に捉えにくいものです。

ただ写真を撮っていれば写真家というわけでもないし、アートっぽい写真を撮っているから写真家というわけでもない。

定義もあいまいで、非常にモヤモヤとわかりにくいイメージがあります。

今回はそんな「写真家」の仕組みを解明します。

いったい写真家とはどんな存在なのでしょうか。

ちなみに今回はこちらのシリーズの「写真家編」ですね。

プロの写真って、アマチュアの写真とどう違うのか、そのあたりが気になっている方も多いことでしょう。見た目上は違いのない、むしろプロよりアマチュアのほうがうまいとさえ思える場合も多々あるそんな写真たち。実はこんな違いがあったのです。
世の中には「アート」と呼ばれる写真があり、自分でも撮れそうな写真に1億2億の値が付いたりします。「一体何が違うんだ!」そう叫びたくなる皆さんのために今回は、「アート写真」のそのカラクリを解説しました。これを読んだ上でなお、撮れるか撮れないかをご検討ください。
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「写真家」の解明

さて、「写真家」といってどんな人物を思い浮かべますか?

グーグルで「写真家 有名」と検索してみると、

蜷川実花土門拳森山大道荒木経惟篠山紀信

といった名前が並びます。

写真家

では、これらの人たちの撮る写真って、どんなイメージでしょう。

一言で言うと「アートっぽい」。

そんな印象ではないでしょうか。

まあ、あくまで印象ですが。

蜷川実花

©Mika Ninagawa

土門拳

©Ken Domon

森山大道

©Daido Moriyama

荒木経惟

©Nobuyoshi Araki

篠山紀信

©Kishin Shinoyama

「アート」と「コンテンポラリーアート」の違い

ここで言う「アートっぽい」について、まずは補足を。

以前、「アートと呼ばれる写真と、そうでない写真は一体何が違うのか?」という記事で、アート写真について言及しましたが、あれはアートの中でも「コンテンポラリーアート」と呼ばれるものです。

それは「野球」の中の「メジャーリーグ」みたいに、漠然とした「アート」の中の「1分野」と言っていいでしょう。

そして、「野球をやっている人」全員がメジャーリーガーではないのと同じで、アートっぽい写真を撮っている人全員がコンテンポラリーアーティストではありません。

アートとコンテンポラリーアートの関係

いまここで言っている「アートっぽさ」は、そういうジャンル分けされる前の、漠然とした大きなくくりのほうの「アート」です。

野球で言うと「メジャーリーグ」ではなく、草野球も少年野球も含めた「野球全般」です。

みなさんにも「アート」と言われて連想するような「アートっぽさ」がそれぞれにあるかと思いますが、ここで言うアートは、そんな漠然としたソレです。

写真家と「アートっぽさ」

というわけでまず、グーグルがピックアップした5名の写真家の傾向は、「アートっぽい写真を撮る人」です。まあ漠然とした傾向ですが。

しかし、アートっぽい写真を撮っていれば、それだけで「写真家」と呼べるかというと、それもちょっと違います。

なぜなら今どき「アートっぽい」写真なんて、誰でも撮っているからです。

というか、「趣味で写真を撮っている」ならば、その写真はほとんど「アートっぽい」と言っていいでしょう。

ハイ、趣味で撮っている方は、自分の撮っている写真を思い浮かべてみてください。

「アートっぽい」でしょう?(笑)

しかしそんな人も、自分が「写真家」だとは(ほとんど)思っていないはずです。

もちろん筆者自身もそうです。

撮っている写真が「アートっぽい」ことと「写真家である」ことはイコールでは無いわけです。

先ほどの図でいうと、こういうことになりますね。

アートっぽい写真を撮る人と写真家の関係

では、写真家を写真家たらしめる要素とは、いったい何でしょうか?

写真家を写真家たらしめる要素

同じく5名の写真家の共通点から探ってみましょう。

写真家

実はこの人たちには全員、「写真の傾向」というあいまいなものではなく、「事実」としてハッキリと間違いなく指摘できる共通点があります。

何でしょう?

それはある程度権威のある、何らかの写真にまつわる「賞」を受賞している、ということです。

写真賞、芸術賞、なんたら賞。

上記の写真家たちは全員例外なく、そういったそれなりに権威のある何らかの賞を、それも複数受賞しています。

というか土門拳にいたっては、むしろ自分の名前が賞になっていますし、賞を「もらう」のではなく「あげる」側(審査員)の人だっています。

この「賞をもらう」とはどういうことでしょうか?

それは「それにふさわしい人」と権威から認められた、ということです。

写真にまつわるそれなりに権威のある賞を受賞するということは、「この人はなかなか立派な写真家ですよ」という権威からのお墨付きです。

そしてそれを選ぶ側(審査員)にもなれば、もはや自分が権威です。

つまり写真家とは、まわりからそう認められた存在というわけです。

写真家になるのは簡単、だけど…

でも言いますよね。

写真家になるのは、写真を撮って「写真家です」と名乗るだけでいいと。

だって免許も資格もないから。

それはその通りでしょう。

だから、写真家に「なること」は簡単です。

でも、写真家だと「認めてもらう」のは簡単ではありません。

ソレっぽい写真を撮って「写真家です」と言っているだけの人と、

  • 日本写真批評家協会新人賞
  • 日本写真家協会年度賞
  • 第44回毎日芸術賞
  • ドイツ写真家協会賞
  • …他

を受賞したという人(森山大道の例)。

一般的にどちらがより「写真家」だと認められますか?

言うまでもありませんね。

ただ写真を撮って「写真家です」と言っているだけの人と、いろんな賞を受賞している人とでは、写真家としての説得力が違います。

ただ撮っているだけの人が「写真家です」と言っても、世間の反応は「ふーん、そうですか」ですが、あれやこれや受賞していたら「なるほど確かに写真家だ」となります。

確かに両者とも「写真家」であることには違いないでしょう。

しかし、「写真家度」が違います。

「賞」などの世間からの認知や評価があるか無いかによって、写真家としての説得力が全然違うのです。

逆に考えると、「写真家度」を上げようと思ったら、そういう「賞」を取るのが何よりの近道とも言えますね。

「賞」以前の写真家

では、今ではメジャーとなっている森山大道、荒木経惟といった写真家は、賞を取る前は写真家ではなかったのでしょうか?

そんなことはありませんね。

賞を取る前から「写真家」として活動していたからこそ、そういった賞もいただけるわけです。

そこはやはり、誰に知られていなくても、写真を撮って「写真家です」と名乗るところからスタートです。

そして徐々に賞をもらったり個展をしたり写真集を出したりして、「写真家度」を上げていったのです。

つまり森山大道もアラーキーも、やっぱり「賞」を取る前から写真家だったのです。

ただ「写真家度」が、今と比べて極端に低かっただけです。

ですからいま現在、世間で認められていない、ただ写真を撮って「写真家です」と名乗っているだけの段階の人も、やっぱり写真家は写真家です。

そこから未来の森山大道やアラーキーも出てくるわけです。

「写真家」のわかりにくさの原因

つまり「写真家」というもののわかりにくさ、そのモヤモヤの原因は、「写真家」というものが白黒ハッキリしたものではなく、「度合い」によるものだからです。

普通、人の肩書きって、どこそこ会社の部長であるとか、なになに大学の何年生であるとか、ハッキリとしている場合がほとんどです。

しかし、写真家の場合は「写真家である」「写真家でない」の明確な線引きがなく、その境界があいまいなのです。

まず、はじめは誰でも、写真を撮って「写真家です」と名乗るところがスタートです。

どんなにメジャーな写真家でも、無名時代はそうです。

しかしそんなことは、スマホにカメラが搭載されている現代であれば、ほとんど誰にでもできることです。

そんな誰にでもできることによって「写真家」という、ちょっとアーティスティックで巨匠チックなスゴそうなネーミングが手に入ることに、世間は抵抗があります。

だからその段階の人を、世間はまだ「写真家」とは呼びたくありません。

つまりスタート段階の写真家は、写真家とはいえ最低レベルの「写真家度」です。

そこから徐々に、個展をやったり賞を取ったりして、世間の認知を得ながら写真家度を上げていき、徐々に立派な「写真家」に仕上がっていくのです。

それは、真っ白なキャンバスに写真家という「色」を一滴ずつ、あるいは数滴ずつたらしながら、最終的にその人が「写真家色」に染まっていく過程を見るかのようです。

写真家のキャンバス

その過程にはいろんな段階があり、

ある人は「そんなに白が多い段階では写真家ではない」と言い、

ある人は「そんな不純な色が混ざっていては写真家ではない」と言い、

またある人は「写真家と名乗った段階で写真家だ」と言う。

その「グレーゾーン」の幅広さがすなわち、写真家というもののあいまいさの原因です。

「写真家」の2つの視点

つまり、「写真家」というものには、2つの視点があるということです。

  • 自分からの視点
  • 世間からの視点

イコール↓

  • 自分で自分を「写真家」だと言っている、自分で自分を「写真家」だと認めている。
  • 世間がその人を「写真家」だと言っている、世間がその人を「写真家」だと認めている。

この2つの要素のブレンド具合によって、その人の「写真家度」が決まると言っていいでしょう。

しかし、その力関係については、もちろん「世間」のほうが圧倒的に大きいことは言うまでもありません。

単純に「数」からいっても、自分は「1人」であり、世間は「多数」です。

キャンバスに色を塗るなら、一滴ずつポタポタと色を落とすより、バケツごとドバッとひっくり返すほうが圧倒的に早いわけです。

写真家のキャンバス

自分で自分を写真家だと言って、写真家として活動している。

それも立派な「写真家」です。

しかし、「世間からの認知」が少ないと、「写真家度」は小さなものにならざるを得ません。

ポタポタと一滴ずつ色を落としていても、広大なキャンバスは永遠に埋まりそうにありません。

その一方で、ヴィヴィアン・マイヤーのように、自分自身ではちっとも写真家だと認めてないし、写真家らしい活動も何ひとつしていないけど、世間と言う圧倒的な力がそう認めることによって、「自称写真家」をはるかにしのぐ「写真家度」を達成する場合もあります。

これが「一滴」と「バケツ」の差です。

つまり「自分力」と「世間力」の差です。

そんな「確かにこの人は写真家だ」と世間が認めてしまう「世間力」としては、

  • 「賞」を受賞する:その賞の権威の大小が、バケツの大小
  • 「写真家協会」等に所属する:その協会の権威の大小が、バケツの大小
  • 「撮影者」としてクレジットが載る:その写真の認知度の大小が、バケツの大小

といったことが挙げられます。

つまり写真家の「写真家度」は、かなりの程度が世間の認知に寄りかかっているわけです。

そして「世間」という捉えどころのないものに寄りかかっている以上、「写真家」が捉えどころのないものになるのは当然です。

「写真家」とは

では、最終的に「写真家」とはどういうものなのか。

まとめてみましょう。

写真家には誰でもなれる

「写真家」には 誰でもなれる

免許や資格は一切ないので。

その方法は、写真を撮って「写真家です」と言うだけ。

写真家と「写真家度」

しかし写真家には、「世間からの認知」という側面もある。

自分ひとりが「写真家」と言っているだけでは、「写真家度」は弱い。

世間という圧倒的多数のバックアップを得ることによって、「写真家度」は大幅にアップする。

「写真家度」と世間からの認知

実際、自分のことを一言も「写真家」だと言っていないヴィヴィアン・マイヤーは、世間からの圧倒的な認知だけによって、「自称写真家」をはるかにしのぐ「写真家度」を達成している。

マイヤー本人は写真家らしい活動は全くしていない

つまり、写真家度を上げるためには世間からの認知がほぼ不可欠

「写真家度」を上げるために

そして、世間からの認知のために有効なのが、

  • 権威ある賞の受賞
  • 権威ある協会に所属
  • 認知度の高い写真の撮影

等々。

結局はまわりからの「認知」が、写真家度を上げるための手段。

「写真家」を理解する方法

というように「写真家」というものは、「コレ」と指定できるものではありません。

さまざまな度合いを含んだ「写真家度」の分布の帯の上に、さまざまな度合いの人がなめらかなグラデーションを描いて混在している状況です。

その帯の中には、昨日カメラを買って今日から写真家になると決めた人もいるでしょうし、まだ賞は取ってないけど、地道にコンテストに応募している人もいるでしょうし、アラーキーニナミカみたいなビッグネームもいます。

写真家度分布

そのグラデーションは、あまりにもなめらかすぎて、ラインを引く何のとっかかりもありません

どこからどこまでが写真家、それ以外は違うと、明確なラインが引けないのです。

この中の全員に共通するのは「写真を撮っている」ということだけです。

しかし、「写真を撮っている人」=「写真家」とするのは、あまりにも乱暴です。

メモ代わりにスマホで撮っているだけの人も、写真家になっちゃいます。

かといって、どこにもラインを引くとっかかりがない。

ではいったい「写真家」というものを、どういうふうに理解すればいいのでしょう?

それはもう、「写真家である」「写真家でない」と、ハッキリ白黒で割り切るのではなく、グラデーションそのままの「度合い」で理解するしかありません。

この人はコレくらいの写真家度、あのひとはアレくらいの写真家度、と。

「写真家である」「写真家でない」ではなく、「どれくらいの写真家かな?」です。

そして念のため付け加えておきますが、それは度合いの「寡多」であって、「優劣」でもなければ「良し悪し」でもありません。

まとめ

さて今回は、「写真家」なるものが一体何なのかについて見てきました。

なんとなくあいまいに捉えていたかもしれない「写真家」なるものは、やっぱりあいまいに捉えるしかなかったのです。(笑)

でも、写真家というものに「度合い」という視点を持ち込むことによって、一気にその理解度は増します。

そしてそんな、あいまいなる「グラデーション」が、写真の多様性を生み出しているのもまた事実です。

下手なりの写真、上手いなりの写真、ビギナーなりの写真、ベテランなりの写真。

スゴい写真、ステキな写真、キレイな写真、カッコイイ写真。

それぞれの個性を生かした写真。

そんなさまざまな度合いが混在する多様性が、「写真家」の魅力でもあります。

モノクロ写真の魅力は、白から黒に至るその豊かなグラデーションですが、写真家たちの魅力も、やっぱりその「写真家度」の混在が織り成す豊かなグラデーションです。

モノクロ写真はいつの時代にも魅力的な存在です。過去の名作も、その時代にモノクロしかなかったから、という消極的な理由ではなく、もっと積極的な理由によって読み解くことができます。今回は名作に学ぶモノクロ写真の魅力とその撮り方です。デジタル全盛のこの時代に、改めてモノクロの魅力に触れてみてください。

「写真家」がわかりにくいのは嘆くことではなく、むしろ 祝うことでした。

【続編アリマス↓↓↓】

「写真を撮る人」の呼称は、「写真家」に限らず、カメラマンやフォトグラファー、インスタグラマーなんてのまであります。今回はそんな、さまざまに変転する「呼称」と「写真」の関係について。
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記事を書いている人
上原京平
本業はカメラマンの記事職人です。
「撮る」「見る」につづく第三の写真の楽しみ方、「考える写真」を当ブログにて展開中。
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