ヴィヴィアン・マイヤーという写真家をご存知でしょうか?
写真集も話題になったし、ドキュメンタリー映画も公開されたので、ご存知の方も多いでしょう。
彼女は、1950年代~90年代にかけて、主にシカゴやニューヨークの街並みや、そこに生きる人々を撮影した写真家で、2009年に亡くなっています。
その確かなカメラアイと、生き生きとした描写力は、世界が絶賛してやまないものです。
彼女についてもっとも謎とされているのが、生前、撮った写真を一切公表しなかった、という点です。
たまたま彼女の撮影した大量のネガを地元のオークションで落札したジョン・マルーフという青年が、ネット上にその写真を公開したことが世に知れ渡るキッカケです。
またたく間に写真は話題になり、写真展が世界各地で開催され、写真集は全米1位になり、映画はアカデミー賞にノミネートされました。
オフィシャルサイト:vivianmaier.com
上記リンクを見ていただければわかりますが、そのクオリティは非常に高く、なるほどブームになるのも頷けます。
しかしながら、たまたま落札した人間がネットにアップしてくれるような人だったから良かったものの、本来ならこのまま闇に葬り去られていた可能性のほうが高いでしょう。
そんな発見の手順も異例だし、そもそも生前一切公表しなかったというのも異例であり、そのわりには15万枚ものネガが残っているというのも異例です。
今回はそんな「異例」ずくめのヴィヴィアン・マイヤーという写真家をご紹介します。
同時代のほかの写真家とはマッチしないその「異例な」ポジションは、私たちの写真観に、新しい視点をもたらしてくれます。
目次
ヴィヴィアン・マイヤーという写真家
ヴィヴィアン・マイヤーは、1926年2月1日、アメリカのニューヨークに生まれました。
母はフランス人で、父はオーストリア人です。
ニューヨークやフランスで暮らしていたこともありましたが、1950年代にはシカゴに移り住み、以後40年乳母として生計を立てます。
そうです、彼女は正確には「写真家」ではなく「乳母」でした。
写真家として活動していたわけではなく、乳母という職業のかたわら、ほとんど「趣味」みたいな形で写真を撮っていたのです。
そして、その活動期間に撮影した枚数は、実に15万枚以上という膨大な数です。
ほとんど趣味の域を超えています。
今はデジタルですから、それくらい全然撮れるかもしれませんが、フィルムで、しかも初期の頃はローライという手間のかかる中判カメラで撮っていましたから、相当な時間を写真に充てていたことがうかがえます。
写真を一切公表しなかったという点とも合わせて、かなり特異な人物像が浮かび上がります。
その経歴については、以下のサイトに詳しく書かれていますので、参照してみてください。
【完全解説】ヴィヴィアン・マイヤー「謎のアマチュア写真家」(外部サイト)
ここからはその写真の特徴を見ていきます。
ヴィヴィアン・マイヤーの特徴:1.ストレート性
2014年に公開された映画、「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」は、アカデミー賞にもノミネートされ、話題にもなりました。
監督が、ネガを落札して世間にその写真を知らしめた、ジョン・マルーフその人ってのも面白いところです。
その中で、マルーフは彼女を知る人たちに相当数インタビューしていますが、さんざん言われるのは、「変わり者」ということです。
あまり人と交流することがなく、プライベートを外に明かすこともなかったようです。
かといって内気でシャイなわけではなく、写真を見ればわかるように、ストリートであんなに真正面からあんなに近距離で被写体に向き合えるのは、相当な度胸と言えます。
普通、見知らぬ他人に対して、この距離でカメラを構えることができますか?
彼女は、「人は人、自分は自分」みたいなところがあり、歯に衣着せぬ物言いだったともいいますが、その性格は写真からも如実に受け取れます。
何の躊躇もなくストレートに被写体に向き合っています。
映画の中で、子どもが車に轢かれた時でも平気でその状況を撮っていて、「ヴィヴィアンは居る次元が違う、いつでも平然と撮る」と言っている人もいました。
普通そんなことは本職のカメラマンでもなかなかできません。
普通は周囲の目や、本人の良心が咎めます。
また、デパートの試食のお菓子を、かごの中身をごっそり持っていくということも平然とやっていたそうです。
ほとんど無神経といっていいくらいのストレートさが、もともと彼女の性格として備わっていたのでしょう。
そしてそのストレートさは、被写体が「場面」であったり「物」である場合も、遺憾なく発揮されます。
「面白い」と思ったものに、何の躊躇もなく「ストレートに」カメラを向けている、そんな気配が感じ取れます。
それは、撮り方を下手にこねくり回したあげくに撮る、という感じではありません。
彼女の写真はその構図の良さ、タイミングの良さなど、テクニック的にハイレベルと言われてます。
しかし彼女の写真は、ハイレベルなテクニックを駆使した結果というよりも、「純度の高いストレート性の結果」と言ったほうがしっくりきます。
ためらわない。何の躊躇もない。
ストレートに「最もいい瞬間」。
ストレートに「最もいいポジション」。
どストレートにスパッと「核心」を選択する。
それは、その態度がストレートであるからこそ、その内容がストレートに伝わってくる、そんな写真です。
「天才的」な写真
そのストレートさは、ほとんど「天才的」と言っていいでしょう。
「天才とは一種の欠落である」とも言われていますが、この場合の欠落とは、才能をストップさせるブレーキ要素の欠落です。
ヴィヴィアン・マイヤーにおけるその欠落とは、「遠慮」です。
ヴィヴィアン・マイヤーの写真は、遠慮なく写真のおいしい部分を100%持っていってます。
まさにお菓子のかごからごっそり中身を持っていくように。
これはやろうと思って出来ることではなく、一種の天性です。
彼女の写真には、どこか織田信長やモーツァルトに通じる、天衣無縫、奔放不羈な「天才」の匂いを感じます。
それはこの、「どストレート」に核心を掴みにいける能力が、そうさせているのでしょう。
ヴィヴィアン・マイヤーの特徴:2.「撮りたい」というだけの理由
そして、被写体や撮り方は多岐にわたっていますが、そのなかでも共通する要素は、単純なる「撮りたい」でしょう。
彼女の写真は、アップのポートレートだったり、決定的瞬間だったり、風景だったり、物だったり、撮り方が一定しないというか、散漫と言うか。
アーティストや写真家ならば、たぶんマズいであろう統一性の無さです。
基本的にアーティストや写真家は、自らの特徴をハッキリと「絞る」ことによって売っています。
アーティストや写真家であれば、「自らの方向性に沿った」写真を撮るはずです。
しかし彼女はアーティストであることも写真家であることも選択しませんでした。
撮った写真は、一切誰にも見せなかったわけですから、その撮り方は批評家たちの声の届かないところにあります。
単純に、自分の「面白い」「撮りたい」だけを基準に撮ることができます。
実際、ただの新聞紙やゴミ箱の中をブローニーフィルムで大量に撮影していますが、他人にとってはほとんど意味がないであろうそれらの写真は、ただ単に撮りたいから撮ったとしか言いようがありません。
そこには、「人に見せるため」とか「作品として」といった態度が、決定的に欠落しています。
それは先ほどの「欠落」にも通じますが、ここでもやはり「他人の目を気にする」という要素が欠落しています。
純粋に自分が撮りたいものだけを撮っているようです。
セルフポートレートについて
彼女はセルフポートレートもかなりの枚数撮っていますが、それらもやはり「アート」だとか「表現」だとかいった小難しいことではなく、単純に「面白い」から撮っているように見えます。
ひとつとして同じものが無く、本当にいろんなバリエーションで撮っていますが、それらは単純にアイデアとして「面白い」ものです。
ほとんど、バリエーションを「収集」しているかのようにたくさん撮っていますが、この収集っぷりが、次の3つ目の特徴につながります。
ヴィヴィアン・マイヤーの特徴:3.収集癖
そして彼女のキャラクターを形作る、かなり大きな要素が、異常なまでの収集癖です。
部屋の中では新聞を天井に届くほど積み上げていたそうですし、そもそもネガがオークションにかけられるキッカケとなったのも、その膨大な収集物を保管しておく、貸し倉庫の家賃が払えなくなったためと言われています。
服や靴、レシートやメモまで、ありとあらゆる物品を大量に保管していました。
この収集癖は、その15万枚という膨大な撮影枚数に通じます。
「誰にも見せない写真を、なぜあれほど撮り続けたのか」
映画の中でも、それはヴィヴィアン・マイヤーの謎とされていましたが、それはあの異常な収集癖をみれば簡単に理解できます。
逆に、何でそれが「謎」なのかが謎なくらい、明々白々な理由がそこにはあります。
すなわち、彼女がやっていたことは、「撮影カットの収集」です。
写真を「撮る」というよりも、「収集」していたのです。
実際、残された彼女の写真には、未現像のフィルムも大量にあったといいます。
つまり、撮影カットを「集めること」が目的で、それを「見ること」が目的ではなかったわけです。
なおかつ、彼女の写真は、同じ場面を何枚も撮る撮り方ではなく、1場面につき1カットという撮り方が多いです。
「作品にしよう」というつもりで撮っているなら、アングルを変えて、タイミングを変えて複数枚撮るのが普通です。
しかし、「場面の収集」が目的ならば、その場面のハイライトシーンが1枚あれば十分です。
そして彼女の、にべもないストレートさがあれば、1カットで十分満足のいく写真が撮れたことでしょう。
つまり、その行動原理は「1つの作品を仕上げる」ではなくて、「たくさんのシーンを集める」ということです。
そして「収集癖」ってのはつまり「癖」です。
ついうっかり撮っちゃうわけです。
タバコを吸う人が、ほとんど癖で1日に10本も20本も吸っちゃうように、彼女は写真を撮るのが癖で、一日に5本も10本も写真を撮っちゃうわけです。
その証拠に、大量にある彼女のセルフポートレートは、ほとんど無表情です。
それは、写真を撮るのが「楽しい!」とか「至福の時間を満喫中♡」とかいうよりも、ほとんど「作業をこなしている」かのようです。
「黙々と作業をこなす姿」が、そこには写し出されています。
「癖」つまり、「どうしようもなくやっちゃうこと」。
彼女にとって撮影は、そんなものであったことが想像されます。
ヴィヴィアン・マイヤーの特徴:まとめ
さて、以上をまとめると、ヴィヴィアン・マイヤーという写真家の全体像が浮かび上がってきます。
まず、その写真の内容は、「面白いもの」「撮りたいもの」という、自分の「好み」が基準になっています。
そしてその撮り方は、撮りたいと思ったものを「ストレート」に、撮っています。
普通なら「撮りにくい」と感じるような、見知らぬ他人のアップも、真正面から堂々と、臆することなく撮ってます。
ほとんど「神経がないのか、この人は」というような大胆さです。
中には目線をもらっているものもありますが、それはあの至近距離でカメラを構えるなら、声をかけないほうが逆に不自然というものです。
そしてそんな写真を、大量に撮っているわけですが、それはもう「趣味」とか「楽しみ」とかいうレベルではなく、ほとんど「癖」です。
もはや好きとか嫌いとか、楽しいとか楽しくないとか、そういうレベルの話ではなく、ほとんど生存の一部と言っていいでしょう。呼吸と一緒です。
それは15万枚にもなりますて。
まとめると、ヴィヴィアン・マイヤーは、自分の「撮りたい」写真を「ストレート」に、ひたすら「収集」した。
そんな写真家だったのではないでしょうか。
ヴィヴィアン・マイヤーが作品を発表しなかった理由について
余談ながら、ヴィヴィアン・マイヤーはなぜ、自らの作品を発表しなかったのか。
発表していれば有名になったのに。
そんな声は多いです。
しかし、自らを固く閉ざすような人間が、有名になりたいとか思わないでしょう。普通。
友達もなく、家族もなく、生涯結婚もせず、誰にも自分のことを明かさない。
偽名すら使っていました。
そんな人間が、自分の写真の価値をハッキリ認識していたとしても、それを世間に明かさないのは別に普通のことだと思います。
「なぜ発表しなかったのか」「発表していれば有名になったのに」は、世間の一方的な価値基準であって、別にそうじゃなくてもいいはずです。
普通に彼女のドキュメンタリーを見たくらいの彼女に対する知識でも、発表しないのはごく自然なことだと思えました。
これも「謎」とされているのが、むしろ謎なくらいです。
「いい写真」と「作品」の違い
さて、ヴィヴィアン・マイヤーとその写真について理解したところで、次の話題に行きましょう。
先日、こんなブログを見ました。
Is Vivian Maier over-rated?(外部サイト)
「ヴィヴィアン・マイヤーは過大評価されてる?」というタイトルですが、彼女の写真は同時代に活躍した、アンリ・カルティエ=ブレッソン、アンドレ・ケルテス、ロベール・ドアノーらの写真とは隔たりがある、と言っているものです。
目を閉じてブレッソンらの写真は思い浮かべることができるが、マイヤーの場合思い浮かぶものがほとんどなく、あっても彼女の「自撮り」であると言います。
そして、ブレッソンら、歴史上の巨匠たちと同列に扱うことに疑問を呈しています。
これはなかなか正直な、面白い意見だと思います。
そして、そういう感想が出てくる理由を考えると、面白い結論が出てきます。
ヴィヴィアン・マイヤーとほかの写真家の違い
ヴィヴィアン・マイヤーとほかの写真家の違い。
それはまず、その写真の「志向」がどこにあるか、ということが言えます。
ブレッソン、ケルテス、ドアノーらの写真は「作品」という印象がありますが、マイヤーの写真は、作品というよりも「いい写真」あるいは「素敵な写真」という印象です。
なんでそういう違いが発生するのかと言うと、いわゆる「写真家」たちの写真は、その「スタイル」の範疇で撮っているのに対し、マイヤーの場合は、スタイルに対する意識はほとんど感じられないからです。
別な言い方をすると、写真家たちは「スタイルを追求する」撮り方で、マイヤーは「撮りたいように撮る」撮り方、と言えるでしょう。
先にマイヤーの写真たちは「散漫」な印象だという話をしましたが、それはスタイルに対する意識が希薄で、「撮りたいように」撮っているからですね。
「ブレッソンらの写真は思い浮かべることができるが、マイヤーの場合思い浮かぶものがほとんどない」と上記ブログで言われていましたが、その違いは写真に「スタイル」があるか、それとも「散漫」かの違いでしょう。
「スタイル」とは、その写真家を貫く、一貫した印象と言えますが、そういうものがあると写真は思い浮かびやすく、そういうものがないと思い浮かびにくい、ということですね。
そして、写真家としてのスタイルもなく、ただ撮りたいがままに撮ったような散漫な写真。
そういった「作品」とは呼べないような写真が、ブレッソンやケルテス、ドアノーらの巨匠と同列に扱われていいの?という疑問が、上記のブログにおいて提示されているわけです。
「いい写真」と「作品」の違い
さて、「写真家」や「作品」を形作るのは、一貫した「スタイル」と言うことができます。
そしてそのスタイルは、それを「志向」することによって生み出されます。
つまり、写真家や作品というものは、そうあろうとする「意思」によって形成されているということです。
マイヤーの場合はどうか?
マイヤーの場合、そういった意思は希薄です。
マイヤーの写真は、馬が自由に野原を駆け回るような奔放不羈、天衣無縫が持ち味です。
どこかを目指して突き進む、という、「目的型」「指向型」ではないのです。
言うなれば「走り回ること」そのものが目的です。
つまり、いわゆる「写真家」が「作品」を作ることとは全く違う原理で動いています。
ところが、そんな写真が世界中で大絶賛を浴び、今やマイヤーは偉大な「写真家」として位置づけられ、その写真はグレートな「作品」として扱われています。
面白いじゃありませんか。
最も写真家らしからぬ人物が偉大な「写真家」として位置づけられ、最も作品っぽくない写真が偉大な「作品」として扱われる。
おそらく、フリッカーやインスタ上には、彼女以上に「写真家」的な人はたくさんいるでしょうし、彼女の写真以上に「作品」的な写真もたくさんあるでしょう。
しかし、彼女ほどに有名で、彼女ほどの扱いを受けている「写真家」がどれだけいるでしょうか。
そう、もはや「写真家」ではないのです。そして「作品」でもないのです。
「乳母」であってもいいし、サラリーマンであってもいいでしょう。学生でもいいです。
「作品」じゃなくていいし、もはや「写真」じゃなくてもいいかもしれません。
もちろん「発表」しなくてもいいし。
ヴィヴィアン・マイヤーは写真を「写真家」の枠から解放し、そして「作品」という枠からも解放したわけです。
確かに彼女の写真は「作品」とは言いにくいものがあります。
スタイルも統一感もなく散漫な印象です。作品としての力強さはないでしょう。
しかし、作品は志向によって作られるので、それが一種の「あざとさ」につながる危険性をはらんでいます。
志向が作品に統一感をもたらし「スタイル」と「美意識」を形成するわけですが、その一方でそれが一種の「やらせ」に通じるいやらしさを露呈する可能性もあります。
しかしヴィヴィアン・マイヤーの写真は、そういった作品としてのしがらみとは無縁です。
それがもたらす、一種あっけらかんとした「解放感」が、彼女の写真を魅力的なものにしています。
「解放」とは「まとまり」の反対です。
「作品を作る」とは「まとめよう」とする行為ですが、マイヤーは逆に写真を「解放」しています。
解き放たれた写真たちが、生き生きしているではありませんか。
確かにそれは「写真家」の行為ではないし、「作品」とも呼べないかもしれません。
事実それは、写真家でも何でもない、シカゴ在住のミス・マイヤー氏が、持ち前の収集癖でひたすら撮り集めた、ごくプライベートな、作品でも何でもないただの写真です。
実際、マルーフが落札したそのネガは10万枚で380ドルです。もはやただの「雑貨」です。
しかしその「作品」ではない写真が放つ魅力が、写真家の「作品」に匹敵し、あるいは凌駕してしまいました。
これは写真家でもない、その写真が作品でもない我々にとって、大いなる朗報です。
力まなくてもいいし、大作じゃなくてもいい。
「解放」という手段が、我々にはあったのです。
まとめ
今回は異色の写真家、ヴィヴィアン・マイヤーを紹介しました。
今回の記事のきっかけは、例の「Is Vivian Maier over-rated?」です。
ヴィヴィアン・マイヤーの写真は、見た目は確かに良く出来たストリート・フォトグラフィーという体ですが、ほかとは「何か違う」というその意見に、なるほど確かにと思いました。
そこから導き出される結論は、写真に対する新しい方法論を提示するものです。
そもそも、マイヤーと同じような「よく出来たストリート・フォトグラフィー」なら、いくらでもネット上に溢れ、単純にそんな写真を見たいだけなら、なにも今さら「発掘」する必要はありません。
しかし、わざわざ「発掘」され、それが世界中の人々の琴線に触れたのには、それ相応の理由があったのです。
ヴィヴィアン・マイヤーは新しいタイプの写真家です。
普通は「写真家」を志向して写真家になるものですが、この人はそんなつもりは一切なく、「写真家」にさせられてしまった人です。
ですからその写真も、写真家たるべく撮った写真ではありません。
むしろ「写真家」から解放された写真です。
その点が非常に新しい。
写真に対する「新しいこと」は、もはややり尽くされていて、あとはデジタル上でデータをどういじるか、みたいな昨今ではありました。
しかし、こんな形で写真そのものに対する「新しいこと」が出てくるとは意外な発見です。
デジタル全盛のこの時代に掘り返された、昔のモノクロフィルムによる「新しい」写真の発見。
いや。
ヴィヴィアン・マイヤーの出現は「偶然」ではなく、むしろ「既定の路線」だったのかもしれません。
【写真集レビュー】