アートと呼ばれる写真と、そうでない写真は一体何が違うのか?

記事をシェアする

リチャード・プリンス

世の中には「アート」と呼ばれる写真がありますね。

何だかよくわからないような写真、あるいは自分でも撮れそうな写真に、何百万、何千万、場合によっては億の値が付いたりします。

アンドレアス・グルスキー

アンドレアス・グルスキー「Rhein II」 約3億3300万円

シンディ・シャーマン

シンディ・シャーマン「Untitled #96」 約3億円

「一体何が違うの!?」と叫びたくなるのが、正直な感想ではないでしょうか。

「よし!オレも荒川の土手を撮って億万長者だっ!」

「ふむふむ、娘をリビングに寝っ転がして俯瞰で撮ればいいわけね」

…もちろんそんな単純な話ではありませんね。

アート写真の意味不明さは、その本質が、写真そのものを見てもわからないところにあります。

写真だけ見ればただの川、ただの女の子です。

一体この写真のどこにそんな価値があるのか?その他の写真との違いは何か?

今回はそのあたりの疑問に迫ってみましょう。

果たして我々にも「億」の写真が撮れる可能性はあるのか!?

スポンサーリンク

アート写真とは

さて、アート写真。我々にも撮れそうな写真ですねー。

実際撮れるでしょう、「写真だけ」なら。

しかし、アート写真は、実は写真である前に「アート」なのです。

「アート」というものを、写真を使ってやっているに過ぎないのです。

実はその存在の核心は「アート」のほうにあって、「写真」ではないのです。

実際、前出の3億円の写真を撮ったシンディ・シャーマンは、高松宮殿下記念世界文化賞という芸術賞を「絵画部門」で受賞しています。すでに写真じゃないし。w

ですから、写真の上手い下手ではなく、「アート」であるかどうかが、「アート写真」かどうかの分かれ目です。

つまり、億だの何だのという価格は「アート」に対して付けられている価格であって、「写真」に対してではないのです。

アート写真の作り手=「アーティスト」

で、ありますから、その作者の呼び方。

アート写真を作る人は、「アーティスト」です。

現代写真作家、ビジュアルアーティスト、言い方はいろいろですが、その意味するところは、「アートを制作する人」です。

単純に「写真を撮る人」なら「カメラマン」や「写真家」ですね。

あなたはカメラマンですか、それともアーティストですか?

この質問によって、その人が「アート写真」を撮る人か、「写真」を撮る人かがわかりますね。

アート写真については、「アーティスト」の写真を、「カメラマン」や「写真家」の視点から云々するから、「自分にも撮れそう」とか、「よくわからん」という感想が生まれるのです。

アート写真を理解するためには、まず「これは写真じゃなくてアートなんだ」というところから出発する必要があります。

アートの一般的な見解を検証してみる

その「アート」というものの、ごく一般的な認識は、「オリジナリティのある上手い写真とかキレイな写真」、といったところではないでしょうか。

しかしアートは、「オリジナリティ」とも「技術の巧拙」とも「美的満足」とも関係ありません

考えてもみてください。

「上手い写真」「キレイな写真」「スゴい写真」なんて、インスタやフリッカーなど、ネット上に掃いて捨てるほどありますが、それらの写真が何百万、何千万で売れたなんて聞いたことがありません。

参考:初心者にも撮れる!デジタル時代における「スゴい写真」の撮り方+α

また、オリジナリティについては、「その写真にはその人ならではの表現が盛り込まれているから貴重だ」という言い方もあります。

しかし、「その人ならではのオリジナルな表現」は、誰が撮っても自動的に盛り込まれるわけですから、ただ単に「オリジナル」であること自体は誰にとっても等価です。

1万人いれば1万個のオリジナルな表現があり、その中の1個を特別視する理由はありません。

子どもが撮っても大人が撮っても、アマが撮ってもプロが撮っても、全てが「オリジナル」という点においては等価です。

ですから、一般的に「アート」と思われがちな「オリジナルな表現の、上手い写真、キレイな写真、スゴい写真」は、実は神宮外苑のいちょう並木の落ち葉みたいなもんです。

神宮外苑

なるほどその葉っぱの一枚一枚は、どれ1つ同じものがないオリジナルなものであり、形も美しい。

しかし、文字通り掃いて捨てるほどあり、その葉っぱの一枚一枚に対して市場が付ける価格はいくらでしょう?100円でも買いますか?

「え!?オリジナルな表現の、上手い写真、キレイな写真、スゴい写真ってだけですごいんじゃない!?」と思うかもしれませんが、例えば小学校にそういう子が一人いたとして、全国で何人になりますか?全世界で何人になりますか?

「オリジナルな表現の、上手い写真、キレイな写真、スゴい写真」は、世界レベルでみるとやっぱり、いちょう並木の落ち葉です。全然ありふれたものです。インスタやフリッカーを見れば一目瞭然です。

アート=「希少性」

逆にそこから導き出される結論は、アート写真はそれらのように「ありふれていない」ということですね。

アート写真がどんなにありふれた写真に見えたとしても、そこには何か「ありふれていない要素」がないと、高値の説明がつきません。

その「ありふれていない要素」を「アート」と呼んでいるわけですが、アートそのものについては後半で詳しく見ていきましょう。

ちなみに、アート写真は「写真」でありますから、基本的にいくらでも複製可能であります。

しかし、アートの場合はその「ありふれてなさ」つまり「希少性」が大事なので、いくらでも複製可能な「写真」であっても、「アート」であれば制作される枚数は注意深く制限されます。

一般的にはエディション番号を振って、決められた枚数以上は作りません。

前出のアンドレアス・グルスキーの「Rhein II」は市場に出回っている作品は2部だけです。

アートをワインに例えてみる

「上手い下手」それから「希少性」との関連から、アートをワインと比較してみましょう。

世界で最も高値で取引されるワインと言われる「ロマネ・コンティ」も、決して「うまい」わけではありません。(聞くところによると)

ロマネ・コンティ

その価格の根拠はやはり、平均年産約6,000本程度という「希少性」と、製造法や伝統といった「物語性」、そして「飲むより語られる事の方が多いワイン」と言われる「ブランド性」です。

誰にとっても「うまい」「飲みやすい」なら、メルシャンのハウスワインのほうが全然うまい(らしい)です。

これを写真に置き換えると、インスタやフリッカーなど、SNSでたくさんの「いいね!」を集める写真は、「メルシャンのハウスワイン」です。

口当たりはいいけれど、撮れる人はたくさんいるし、億を出してまで欲しいとは思わない。

それに対して、アートマーケットで2億3億の値が付く写真は、「ロマネ・コンティ」です。

ワインは価格が高くなるほど、その「独自性」に価値が移り、「どうしてもそれでなければ」という人が、高いお金を出してでも買うものになってきます。

同様にアートも価格が高くなるほど、その「独自性」に価値が移り、「どうしてもそれでなければ」という人が、高いお金を出してでも買うものになってきます。

その独自性とは、「味」もさることながら、その物語性、ブランド性、イメージなどをひっくるめた総体です。

アートの価値も、その根本としてまずアートそのものの価値がありますが、そこに物語性やブランド性が加味され、さらにマーケット内でのプロモーションの効果や営業力、政治力、プレゼン力、さらには世の中の流行や運や偶然にも左右されながら、最終的な価格に落ち着く、というわけです。

アートと価格の関係

しかしながら、「価格価格って、アートは価格じゃなくて、どれだけ人の心に響くかとか、そういうことがアートではないの?」と首をひねられた方もいるかもしれません。

そうですね、アートは価格よりもむしろ、そっち的なことのほうがよりアートの本質ですね。

というわけで次のパートでは、アートのより本質的な方を掘り下げていきましょう。

しかしその前に、アートと価格の関連について。

まず、アートを野球に例えてみましょう。

野球には草野球からメジャーリーグまで、同じ「野球」でありながら、様々な「棲み分け」がなされていますね。

アートにもそのような棲み分けがあり、同じ「アート」でありながら、個人が個人的な考えによって個人的に活動するようなワールドもあれば、歴史とアートの文脈に則って巨大なマーケットの中で巨大な額と人を動かしながら活動するようなワールドもあります。

今回この記事でお話しているのは、後者の、いわばアート界の「メジャーリーグ」のほうのお話です。

ジャンルで言うと「コンテンポラリーアート」と呼ばれるものです。

メジャーリーグはただ野球を楽しむ場ではなく、マーケットがあり、客があり、資本がある、一種の「ビジネス」です。

コンテンポラリーアートもただアートを楽しむ場ではなく、マーケットがあり、客があり、資本がある、一種の「ビジネス」です。

アートの価値は、価格に置き換えられて、マーケットでやり取りされます。

それは現代の市場主義経済の中でメジャーにアートをやる場合の、必然の結果です。

現代においてメジャーにアートをやる場合、アートに付随する「商品」としての側面も、見過ごすわけにはいかない要素です。

アートとは何か

それではようやく、「アート」そのものについて見ていきましょう。

現在、日々制作されたり取引されたりするアートは、いわゆる「コンテンポラリーアート(現代アート)」と呼ばれています。

「現代の」とわざわざ注釈が付くということは、「過去の」アートもあるということですね。

ここでは、過去のアートから現代のアートへと続く流れを見ながら、アートそのものの本質に迫ってみましょう。

「過去のアート」から「現代のアート」へ

「言葉」は、使っているうちに徐々にその意味が変化してくるものですが、「アート」もまた然りです。

「アート」が分かりにくいのは、そこに過去から現在までの、いろんな意味が含まれてしまっているのも一因でしょう。

そこでまず「過去のアート」と「現代のアート」を、分けて考えてみます。

「過去の」アート

アートの語源はラテン語の「アルス(ars)」ですが、これの意味は「技」とか「技術」です。

そして、アートの意味は一般的には「芸術」「美術」ですね。

そこからまとめると、過去においてアートの意味は、「芸の技術」「美の技術」とでもいうべきもので、その「技、技術」という点に比重が置かれていました。

どちらかと言えば「技法」のことを指していました、近代までは。

ダヴィンチのスフマートにしても、ピカソのキュビスムにしても、それは「技法」です。

レオナルド・ダ・ヴィンチ

レオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」

ピカソ 泣く女

パブロ・ピカソ「泣く女」

ダヴィンチの絵の本質、ピカソの絵の本質は、「どう描いたか」という「技法」が大きなウェイトを占めていました。

「アート」の意味の転換

しかるに近代以降、「アート」が指していた「技法」には変化が訪れます。

大きな転換点のひとつが、マルセル・デュシャンの「」という作品です。

マルセル・デュシャン「泉」

マルセル・デュシャン「泉」

男性の小便器に「リチャード・マット」とサインをしただけのその作品は、もはや作者はその作品を作っていません

そこらへんで売っていた便器を手に入れてきただけです。

作っていないのですから、技法もへったくれもありません。

ですからその作品の本質は、これまでのような「技法」ではなく「考え方」とか「発想」とでも呼ばれるべきものです。

アート=「コンセプト」

アートの流れの中における「泉」の存在意義は、芸術作品ってのは、いかに上手いかや、いかなる技法を駆使したかではなく、「見方」によって成立させることができるんじゃないの?という「コンセプト」の提示です。

小便器であっても、それが美術館に展示され、「作品」として取り扱われるならば、「アート」になり得る。芸術作品は「そのように見る」ことによって成り立っている。

つまりアートというものは「技法」という「絶対的」なものではなく、周囲との関係性という「相対的」なものによって成立させることができる。

そのことを「便器」というおよそアートとはかけ離れたレディメイドで卑近なアイテムを使って、いやむしろその「ギャップ」をこそ利用して、提示したのが「泉」です。

当然、当時の反応は「こんなのアートじゃない!」が大勢を占めます。

実際、手数料さえ支払えば誰でも作品を出品できる展覧会に出品したにも関わらず、「泉」は展示を拒否されます。

そして本人は、その拒否に対して抗議文を投稿したりしている。

現代の視点からすれば、そういった「ムーブメント」全体をひっくるめて「アート」だということもできます。

そしてこの一連の出来事、「リチャード・マット事件」によって、アートの意味は「技法」から「コンセプト」へと変貌を遂げるのです。

「現代の」アート

さて、「技法」から「コンセプト」へと変貌を遂げたアート。

ここからが「現代アート」の始まりです。

コンセプトは「概念」とも訳されますが、文字通りアートの核心が、技法を駆使して作り上げる、目で見え手で触れられる「モノ」から、「概念」という目に見えない手で触れられないものに変わったのです。

ダヴィンチやピカソの絵は、作った「モノ」それ自体が大事です。技法の痕跡そのものが。

しかし、男性の小便器は、目で見え手で触れられますが、それ自体が重要なのではありません。なにしろそのへんで売っている便器ですから。

大事なのは、それが表す「コンセプト」です。

最初に言った、アート写真は「写真」ではなく「アート」だというのも、そういうことですね。

写真そのものではなく、それが表す「コンセプト」こそが核心だということです。

「現代アート(コンテンポラリーアート)」とは

さて、現代アートは「コンセプト」ということになりました。

しかし、ただコンセプトであるだけでは何の価値もないですね。

ただコンセプトであるだけなら誰にでも作れるし、億の値がついたりするはずもありません。

そこには何かしらの「価値」があるはずです。

現代アートの「価値」

現代アートがもたらす価値、それは文字通り一言で言い表せます。

それはあっ!です。

それを見た瞬間に、思わず「あっ!」と言ってしまう要素、それこそが「現代アート」の価値です。

「アッと驚く為五郎」じゃないですけど、まあ一種の「オドロキ」ですね。

「そういう見方があったか!」「そいういう発想があったか!」「そうきたか!」という、まあそんな感じです。

そしてそのオドロキは何からくるのかというと、今まで私たちを縛っていた固定観念という殻を打ち破るところから発生します。

つまり、「これはこうだ」と無意識にも決めてかかっていたことを、「そうじゃない」と、新しい世界に連れて行ってくれるのが「アート」です。

アートによって、私たちは新しい意識に目覚めることができるのです

だからアートには価値があるのです。

アートは「オリジナリティ」でも「上手い」でも「キレイ」でもないと最初に言いましたが、アートがそれらとは異質なものであることがご理解いただけるかと思います。

人々の意識を転換させる力は、「オリジナリティ」や「上手い」や「キレイ」とは無関係です。

「オリジナリティ」は単純にオリジナリティであり、「上手い」は単純に上手いであり、「キレイ」は単純にキレイです。

それらはそれら独自の価値であり、アートとはまた別物ということです。

「希少性」という価値

そして、「あ」は、五十音の一番最初の文字でもあります。

つまり「あっ!」は、それを一番最初に提示したものに対して出てくる言葉です。

今まで誰もやっていないやり方、見せ方、提示の仕方を初めて見たときに、思わず「あっ!」っと言ってしまうのです。

二番手以降では「あっ!」になりません。

それは「なるほどね」とか「はいはい」です。

つまり現代アートにとっては、「それ」が、この世に初めて誕生するという、「パイオニア」であることが重要な要素です。

「一番最初」であることが、電撃ショックの衝撃を生むのです。

二番手以降だと、一度そのショックを経験しているので、最初ほどのショックはありません。

そして、「世界初」の称号は、文字通り、最初にそれを提示した作品にしか与えられません。

その意味で、「パイオニア」であることは作品の価値を高める「希少性」の根源でもあります。

現代アートの「わかりにくさ」とは

さて、現代アートとは突き詰めると「あっ!」なわけですが、実際問題、現代アート作品に触れて「あっ!」となることは、一般的に少ないと言わざるを得ません。

「あっ!」というよりもえ?です。

つまり「ナニコレ?」です。

「現代アート」=「わからないもの」というのが、一般的な図式ですね。

なぜでしょうか?

ここでは現代アートの「わかりにくさ」の仕組みについて探ってみましょう。

現代アートの「わかりにくさ」の原因

アンディ・ウォーホル

有名なアンディ・ウォーホルのキャンベルスープの缶ですが、これは当時であれば見た瞬間に完全なるあっ!ですよね。

最もアートになり得ないモチーフを、最もアートらしからぬ機械的な配列で見せるという、まさに「そうきたか!」の見本です。

今は見慣れてるから別に普通ですけど。

しかし、「なんでこれがアートなの?ただの缶じゃん」という感想も少なからずあったはずです。

それは自分なりの「アート」という固定観念をベースにその作品を見ていて、その作品がその固定観念と「かけ離れている」からこそ起こる感想です。

いま自分が立っている固定観念から、その作品が提示している新しい観念に「飛び移れない」のです。

そもそも「飛び移る気がない」という、本人の意思の問題もありますが、飛び移る気があるにも関わらず、飛び移れないこともあります。

なぜか?

それはお互いの観念の距離があまりにもかけ離れているからです。

霞の向こうにおぼろげに見えている新たな地平。

遠すぎてよく見えない…。

そこには「飛び移ろう」などという発想すらわかないほどの隔たりが横たわっています。

ではなぜそのような隔たりができるのでしょうか。

現代アートにおける「隔たり」の仕組み

アートは「オドロキ」によって成り立っています。

一度驚いたことには、二度目は驚きません。

実際、キャンベルスープの缶は今やただのアイコンであって、もはやオドロキでも何でもありません。

ですから、二度目驚かすためには、一度目のオドロキは「前提」となり、その前提の上に次のオドロキを構築する必要があります。

そうやってオドロキの前提の上に成り立っているオドロキは、100度目のオドロキは99回驚いた前提がある人にとってはオドロキでも、初めての人にとってはあまりにも遠すぎて、もはやオドロキになり得ません。それはただ単に「意味不明」です。

現代アートが誕生して百年経とうという今日、その「オドロキの前提」の積み重ねは、もはや素人がパッと見て理解できる分量を超えています。

つまり、現代アートの「わからん」は、その「オドロキの積み重ね」、つまり「アートの文脈」を理解していないからこそ、起こりうるのです。

アートに馴染みのない我々一般人にとってそれは、小学生が大学生の問題を解けないのと一緒で、当たり前のことなのです。

アート写真の鑑賞【実践編】

では、そのような「アートの文脈」を理解した人にしか、アートの存在は意味がないのでしょうか?

アートとは「理解するもの」であって、「感じるもの」ではないのでしょうか?

ここでは冒頭の3億の写真をストレートに眺めることによって、何が見えてくるのかを試してみましょう。

アンドレアス・グルスキー

アンドレアス・グルスキー「Rhein II」 約3億3300万円

シンディ・シャーマン

シンディ・シャーマン「Untitled #96」 約3億円

はい。ただの川とただの女の子でしたね。

よくわかりませんよね?私もよくわかりせん。アートの素養がないので。

しかし、前提として必要な「アートの文脈」を超えて、作品そのものを見てみましょう。

アンドレアス・グルスキー「Rhein II」

まず最初に言っておかなければならないのは、作品を鑑賞する場合、「実物そのもの」を見なければ意味がない、ということです。

まず、アンドレアス・グルスキーの「Rhein II」ですが、この作品は本来「縦1.9m、横3.6m」というサイズです。

アンドレアス・グルスキー

画面の隅々にまで繊細に描写された画像が、この大きさで迫ってくると、それだけで相当な衝撃であることが想像できます。

そして「川」ですが、これが「ただの川」ではないことはすぐに分かりますね。

あまりにも真っすぐで、あまりにも何もない。

ほとんど写真っぽい感じがしないこの画面が「写真」ってだけで、まず結構なオドロキです。

そしてこの、あまりにも「何事も無い」画面。

画面構成は基本的にただひたすら平行な直線のみです。曲線や交錯のような「変化」が全くありません。

それから、天気は晴れでも雨でもない「どっちつかず」の曇天です。

そして、地平線が設定された位置も、「どっちつかず」のど真ん中

そして、川面と曇天のグレーは、白と黒の中間という「輝度的」に「どっちつかず」であり、「唯一の色」である河岸のグリーンは、可視光線のちょうど中間の波長という「色的」に「どっちつかず」です。

この画面は慎重にドラマを起こさないように構成されていますね。

しかし、画面の下半分で、必要最低限のパターンの変化を起こし、必要最低限の「落ち着き」を、見る者に与えています。

あまりにも何事も無いのは、それはそれで「事件」ですので。

これだけの大画面に「何もない」が広がっている。

まさに異次元です。

特に写真なんて、「超具体」なわけですから、これだけの大画面にわたって「何もない」なんてあり得ないわけです。

しかし、この徹底的な抽象を、現実の風景という「超具体」で描いているのです。

近くでよく見ると、水面のさざ波や草の一本一本まで細密に描写されており(おそらく)、それらがこの画像があくまで「現実」であることを告げています。

このギャップ…。

まさにアッと驚く為五郎です。

普通「写真に撮る」ということは、「何かをしよう」とするものですが、その逆を行って、徹底的に「何かをしない」というのは、ありそうでなかった視点です。(まあ美術史的にはそうでもないかもしれませんが)

デジタル処理も普通「何かをする」ための技術ですが、それを「何もしない」の目的のために利用するのも、面白い点ですね。

しかし、そんな「何もない」の曇天の隙間から、かすかな光が漏れているのは、なにか「希望」とか「救い」を感じさせる、なかなかオツな演出です。

ジョン・レノンとオノ・ヨーコが恋に落ちるきっかけとなった「YES」を連想させますね。

ていうか、これがなかったら本当に絶望しかありませんが、これがあるために救われる。

絶望的なまでに無機質の中に、これがあるために作品は美しくバランスを保っていられる。

そういう意味で「過去の」アートも、やはり現代に息づいているわけです。

「美の技法」は、やはり現代においても、いつの時代も、変わらない真理を発揮し続けているわけです。

そんな過去と現代が究極にマッチしたこの作品は、やはり最高値更新にふさわしい「真のアート」と言えるでしょう。

「シンプルさ」の力

ちなみに、このアンドレアス・グルスキー氏は、ごちゃごちゃした作品のほうが多い印象なのですが、その中でこのような最もシンプルな作品が最も高値というのは、改めてシンプルであることの力強さを感じますね。

このシンプルさが、逆にこの作者のキャリアの中で際立って見えたのかもしれません。

アンドレアス・グルスキー

アンドレアス・グルスキー「99 Cent II Diptychon」

シンディ・シャーマン「Untitled #96」

次に、シンディ・シャーマンの「Untitled #96」を見てみましょう。

シンディ・シャーマン

この作品も、上記の「Rhein II」に抜かれるまでは、当時最も高額な写真作品でした。

この作品を見てまず思うのは、このトリミングっぷりと、不自然に横長い縦横比でしょう。

そしてグラビアのようなポージングとアングル。服のしわも含めて妙に生々しい。

そして、アンバーに統一された色調と不自然なまでに上気した少女の顔。いや、少女というよりはむしろ、成熟気味の生々しさが服の向こうに透けて見えます。

とにかく「ホット」ですね。いやむしろ「アツい」(汗)

それがさらに、いっぱいいっぱのトリミングによって暑苦しさを増し、ほとんどむせ返るようです。むほっ!

視界からはみ出るくらいに生々しい肉体を横たえながらも、はぐらかすような視線によって、そのことに意味づけをしない。

見る者の視線は、ただ無防備な体の上を無節操に這い回るだけ…。

…ってポルノ雑誌ですか!?

はいそうです。

この作品は、「センターフォールドシリーズ」と言われる、一連の作品群の中の一枚です。

その「センターフォールド」は、グラビア雑誌の見開きページというような意味です。

要は、グラビア雑誌の見開きページのパロディです。

この作品は、アンディ・ウォーホルに連なる「ポップアート」の一部とみなされていて、このグラビア感は、一種の「ポップ」なのです。

映画や雑誌、広告やファッションといった、「ポップカルチャー」を作品に取り入れる手法は、いわばアートの1ジャンルですね。

そのポップのひとつ、「ポルノ感」という文脈を利用しながら、それを、セルフポートレート(絵画でいえば自画像)という西洋絵画の伝統的な手法によって、アートに止揚するというこの作品は、低俗さと高邁さのミクスチュアから、別次元の感覚を現出させるという意味で、やはり「アート」なのです。

そしてこの作品は、その「当時」やるからこそ最高に意味を発揮するのであって、これを今やったとしても、大して意味はありません。(センターフォールドシリーズは1981年)

ポップ感のパロディが十分有効な時期に、まだ誰もやっていない手法でアートにまで昇華するからこその「あっ!」なのです。(あの「アメリカン・グラフィティ」的な衣装もやはりポップのパロディですね)

そんなわけですから、今シンプルにこの作品を見ても、「なんかグラビアっぽいな」で終わってしまうのは、ごく真っ当な反応です。

私も、この記事を書くために調べたからこそ、こうやってグダグダ書いているのであって、ただ単にこの写真を見れば、やっぱり「グラビアっぽいな」が関の山です。

というわけで、この価格の根拠が、「今日的なアート」としての価値よりも、「過去のマスターピース」としての価値によるものだということも、うかがい知れるわけです。

ここにおいてアートの文脈を理解しておくことの重要性が、あらためて認識されるわけであります。

マスターピースの持つ力

とは言え、そういった事情を知らずとも、この作品には何か「グッと来る」ものがあるのもまた事実です。(ですよね?)

やはりマスターピースは時代を超えて人をひきつけるパワーを持っているのでしょう。

そして実際、この作品はオークションで最後の2名が競ったために価格が吊り上がったと言われていて、3億?と言われると少し微妙な感じがするかもしれません。

しかし、それだけこの作品が、ある人々に執着をもたらすわけでして、それは理解できる気がします。(笑)

まとめ

というわけで、まとめましょう。

つまるところアート写真とは、「見る人の意識を転換してしまう」写真です。

ただ単に「上手い」とか「キレイ」ではありません。

それらとは全く違った発想で作られています。

そして、人を「あっ!」と言わせるには、これまで「あっ!」と言わせてきた歴史を振り返り、その前提の上に作品を制作する必要があります。

一度「あっ!」と言われたことに、二度目「あっ!」とは言わないからです。

いままでの「あっ!」を検討した上でいままでにない「あっ!」を生み出すことができれば、あなたの作品も億で売れるかもしれません。

そして、そうなった場合はもちろん、きっかけとなった当ブログへの寄付は全然受け付けますので、ご遠慮なく。(笑)

ほんの1割、いや0.1割程度で結構です。

そういう意味も含めて、ぜひチャレンジしてみてください。(笑)

【番外編もどうぞ!】↓↓↓

ピーター・リク氏に学ぶ「写真を高く売る方法」
前回のアート写真の記事の中で触れられることのなかった、孤高の写真作品をご存知でしょうか?7億7千万円という価格が付いたその作品の裏には、「写真を売る」ということを別次元に引き上げた、圧巻の販売手法がありました。
スポンサーリンク

記事をシェアする

写真のネタ帳をフォローする

アートと呼ばれる写真と、そうでない写真は一体何が違うのか?
この記事をお届けした
写真のネタ帳の最新ニュース情報を、
いいねしてチェックしよう!
オススメ記事