「弘法筆を選ばず」なんて言います。
達人はどんな道具であってもいい結果を出す、ということですね。
「写真」の場合だと、うまい人はどんなカメラで撮ってもうまい、ということでしょう。
しかし、この言葉には注釈が必要です。
どんなにいい結果を出すといっても、それはあくまで「その道具なりの」です。
いくらいい結果を出すといっても、使う道具のキャパシティを越えた結果を出すことはできません。
ウサイン・ボルトは下駄をはいても我々よりは速いでしょう。
でも、専用のシューズをはいたほうがもっと速いのは言うまでもありません。
出せる結果は、あくまで「その道具なりの」です。
そう考えると、いい道具を求めることは、我々の最高到達点を高める上で必要なことが理解できます。
道具は、我々の到達できる「上限」を規定してしまうのです。
70点の道具なら70点なり、80点の道具なら80点なりの結果。
だから我々は、「最高の道具」を求める必要があります。
そんな最高の道具はどうやって見つけるのか、そもそも写真における最高の道具(=カメラ)とはどんなものか。
今回はそのあたりに迫ってみましょう。
目次
「いいカメラ」の定義
うまい人はカメラにこだわらないのかというとむしろ逆で、うまい人ほどカメラにこだわります。
カメラマンとカメラの関係
木村伊兵衛のライカ偏愛ぶりは有名ですし、川内倫子のローライはもはや作風の一部です。
「カメラ」が撮れる写真の上限を規定するなら、写真に情熱を持つ人間がカメラにこだわらないのはウソです。
HIROMIXの「BiGmini」や、梅佳代の「EOS5」も一見こだわりがないようですが、こだわりがないのが実はこだわりです。(笑)
なぜならこだわったらむしろ撮れなくなる作風だからです。
彼女たちの写真は、シャッターが絞りがと、そんなことにこだわっていたら、むしろ撮れない写真です。
たまたま使いはじめたカメラであろうと何だろうと、それでもっともよく自分の撮りたい写真が撮れるなら、それがベストなカメラです。
写真とカメラの関係
「カメラ」は、カメラマンがすでに脳内で撮った写真を記録するための装置だというお話は前々回しました。
写真ってカメラが撮るのではなく、カメラマンが決めた場面、構図、被写体、アングル、露出、ピント、タイミング、などを、カメラはただ言われた通りに記録するだけです。
つまり、写真を撮るのは「カメラ」ではなく「人」です。
そして、カメラマンが脳内で撮った写真を100とすると、その100をいかに100に近く現実の写真に変換するかが、カメラという機械に求められる能力です。
そして、カメラマンにとっての「100な写真」は、シャープなピント、ブレのない画像、緻密な解像力といった「高画質」だけがそうではありません。
少しボヤっとしてるほうがいい、むしろ少しブレているほうがいい、あんまり細かいところまで描写されないほうがむしろいい。
そんな100だって、もちろんあり得ます。
カメラマンにとっての100は、カメラマンによってさまざまです。
ですから、それを叶えるカメラも、もちろんさまざまです。
カメラの持つ重要な要素
そしてカメラにはもう1コ、そういった「変換機能」とは別な大事な要素があります。
それは「使用感」です。
使用感は実は、撮れる写真に大きな影響を及ぼします。
使うのが苦であるカメラは、写真を撮ることが苦になります。
そして、「苦な行為」からはいい写真は生まれにくいです。
逆に使うのが楽しいカメラは、写真を撮ることが楽しくなります。
そして、「楽しい行為」からはいい写真が生まれやすいです。
写真を撮るって、結局は何をやっているのかというと、「カメラの操作」です。
「写真を撮る」って、超具体的に言うと、
- ダイヤルをくるくる回したり
- リングをぐるぐる回したり
- タテにしたりヨコにしたり
- ボタンを押したり離したり
- 小窓を覗いたり画面を見たり
といったことです。
「写真を撮る」という行為は結局、「カメラをいじくり回すこと」とイコールです。
ですから、「いじくり回すこと」が「楽しい」「スムーズにできる」は、「写真を撮ること」が「楽しい」「スムーズにできる」とイコールです。
いいカメラは「いい写真が撮れるから」いいカメラなのではなく、「いい写真を撮る気にさせてくれるから」いいカメラなのだと思う。
— 上原京平 (@papa_came) 2017年5月27日
このような感覚的な要素(=相性)も、いいカメラとしての大事な要素です。
自分のパートナーを選ぶときに「相性」は大事な要素として重要視されますが、それはカメラというパートナーを選ぶときも一緒です。
いいカメラとは
つまり、いいカメラとは、
- カメラマンの理想を、高い純度で再現してくれる。(=機能的要素)
- 使っていて楽しい。少なくとも苦ではない。(=感覚的要素)
と、まとめることができるでしょう。
自分にとって「ベストなカメラ」を見つける方法
「ベストなカメラ」は、カメラマンによってまちまちです。
なぜなら、カメラマンによって「100」とする写真(つまり「理想」とする写真)が違うからです。
ですから、自分にとってのベストなカメラを見つけるためには、自分の「理想」を知らなければなりません。
まず自分の「理想とする写真」を見つける
前回もお話しましたが、特に初心者のころは、自分の理想なんてまだ芽生えてないかもしれません。
そんなときは、
- あなたが撮りたい写真
- あなたが好きな写真
- あなたが目標とする写真
を、そのまま「まねてみる」といい、と書きました。
そして、徐々に自分の理想をはぐくんでいけばいいと。
それもひとつの手段です。
いずれにしても、撮りたい写真の「理想」がないことには、それを実現する「理想的な」カメラも決まりません。
前々回、「カメラは写ればそれでいい」と言ったのもそういう意味です。
理想もビジョンも無い段階から、カメラの細かいスペックを云々してもしょうがないです。
とりあえず撮らないと始まらない。
そして撮ったらそこから理想を描かないと始まらない。
カメラ云々が登場するのはその後です。
写真はカメラの力量ではなく、カメラマンの力量で撮るもの
写真はカメラという道具のウェイトが大きいので、力量のない素人でも高価な機材を使えば、簡単にソレっぽい写真が撮れる話は、以前しました。
写真は、お金をだして高価な機材を買いさえすれば、誰でもカンタンにキレイな写真が撮れるので、参入障壁が低いと。
キレイな絵を描くのは相当な訓練が必要だけど、写真なら高価な機材があればスグ撮れると。
これは写真と言う趣味においては、非常にメリットです。
誰でも簡単に入りやすいのです。
しかし、入りやすさと上達のしやすさは無関係です。
写真の上達には、結局は絵と同じくらいの修練が必要です。
なぜなら、何度も言うように、写真を撮るのは結局「カメラ」ではなく「人」だからです。
カメラを変えても人が変わらなければ、写真は何も変わりません。
カメラを変えても写真の「見栄え」が変わるだけで、「内容」は何も変わらないのです。
結局、写真はカメラマンの力量で撮るものであり、機材の力量ではありません。
ですからスペックの高いカメラ、高価なカメラがそのまま「いいカメラ」とは言えないのです。
本当の「いいカメラ」とは、カメラマンの力量をスムーズに発揮させてくれるカメラです。
そういう意味において、「いいカメラ」とはスペックも値段も関係ないのです。
「BiGmini」だってHIROMIXが持てば最強のカメラです。
見つけるべきは「カメラ」ではなく「理想の写真」
すなわち、探すべきは「カメラ」ではないのです。
探すべきものは、あなたの「理想」であり「ビジョン」です。
それは、マップカメラやフジヤカメラに売っているものではありません。
もちろん、ネットや教科書に載っているものでもありません。
それが見つかるのは、あなたの外ではなく内です。
そして、理想やビジョンが見つかったなら、買うべきカメラは自動的に決まります。
決定的瞬間を追い求めるのに、鈍重な大判カメラを選ぶはずがありません。
細密な描写を追い求めるのに、小さなサイズのセンサーや、低画素なカメラを選ぶはずがありません。
あなたの「理想」が、それにふさわしいカメラを呼ぶのです。
本当の「ベストなカメラ」の見つけ方。
それは、ビックカメラやヨドバシカメラに「探しにいく」ものではありません。
それは向こうから「やってくる」ものなのです。
まとめ
前々回はカメラにはこだわるな、それよりも「見る」にこだわれ、という話でした。
今回は、カメラにはこだわるな、それよりも「理想」にこだわれ、という話です。
写真はその誕生以来、技術面を除いてはなにも変わっていない。そして私には技術的なことは重要ではない。
結局のところ、カメラは従属的な要素です。
写真は、目の前の場面に「理想」を「見る」こと。
それに尽きます。
「いい写真が撮れない」
それはつまり、
「目の前の場面に『理想』が見えない」
ということです。
写真の達人は、同じ場面を見ていても、普通の人には見えないものが見えます。
そしてそれを写真にする場合、どんなカメラでどう撮ればいいかを知っています。
まずは目の前の場面に「理想」が見えなければ何も始まらないのです。
それが見えてないのにカメラやレンズをとっかえひっかえしても、全く意味はありません。
なにしろ、カメラが無くったって写真は撮れます。(脳内で。)
無くてもいいくらいのものをとっかえひっかえしても、本質は何も変わりません。
目の前の場面に「理想」を見いだすこと。
それが本来の「写真」です。
それを記録したいと思った時に、はじめてカメラが登場します。
「写真」は常に「カメラ」の前にある。
そして「写真」のさらに前にあるのが、「理想」です。
マイケル・ジャクソンは理想のためなら死んでもいいとさえ言いました。
あなたには死んでもいいと思える理想がありますか?
上記の記事にも書きましたが、実は我々も撮影中にたびたび死んでいます。(笑)
命を理想のためにささげながら、たびたび写真を撮っています。何気に。
命を超える価値すらも持ち得る「理想」。
そんなものを追いかけられるカメラマンという人種は、幸せです。
写真の本質は、カメラにはありません。
写真の本質は、我々の生きる意味、そのものです。