名取洋之助という人物をご存知でしょうか。
「名取洋之助写真賞」という写真の賞もありますので、名前を聞いたことがある方もいらっしゃるでしょう。
彼はカメラマンであると同時に、プロデューサーとして多くの雑誌に関わり、多くの人材を輩出したことでも有名です。
その功績を端的に表現すると、日本に「写真の新しい使い方」を持ち込んだ、ということです。
彼の活躍した昭和初期は、写真といえば個人客を相手とした営業写真、あるいは趣味の芸術写真、それから少数の広告写真というものが主なものでした。
そこに報道写真という、全く新しい写真の使い方を持ち込みました。
それは、写真を純粋な鑑賞のためのものではなく、ストーリーを語るための「記号」として用いる、というものです。
ちょうど文章における「単語」や「センテンス」と同じように写真を扱うわけです。
そしてその哲学を、自らも写真を撮り、本や雑誌を出版することによって体現しました。
また、その過程で、土門拳や亀倉雄策など、その分野を代表する多くの人材を輩出しました。
今回は、日本の写真界に大きなインパクトを与えた報道写真の父、名取洋之助についてご紹介します。
目次
生い立ち~カメラマンへの道
名取洋之助は1910年(明治43年)、東京に生まれます。
家庭は裕福で、やんちゃな少年時代でした。
文学や映画をたしなみ、慶応普通部では同人誌にも参加し、花街から女将に見送られて学校に行くような早熟な一面もありました。
しかしならがら成績は振るわず、進学も難しかったため、父親の計らいでドイツに留学します。
カメラマンになるきっかけ
はじめ演劇などにも熱を入れましたが、最終的に写真に行き着きます。
そのきっかけは、博物館で起こった火事の写真が、地元の出版社に売れたことです。
火事が起こった時、これはスクープとばかりに火事場の写真を押さえますが、その写真は結局売れませんでした。
出版社はすでにもっと火勢のいい写真を、他から入手済みだったのです。
その写真を売り込みにいったのは、のちに妻となるドイツ人のエルナ・メクレンブルクです。
売り込みの帰り道に、彼女が火事場に立ち寄ってみると、展示をしていた工芸家たちが、自分たちの展示品を掘り起こしています。
知り合いの工芸家がいたこともあり、エルナはその場面を何の気なしにスナップに収めます。
その写真を見た洋之助は、「これは売れる」と直感します。
そう、売れたのはそっちの写真です。
「ニュース写真」と「ドキュメンタリー写真」の違い
火事場の火事中の写真は、言ってみれば「ニュース写真」です。
「そのまんまの写真」であり、そこで大事なのは、それが写っているか写っていないかだけです。
しかし、名取が直感した売れる写真は、「その後」の写真です。
出来事のピークではなく、それにまつわる事前事後のストーリーです。
それは、物語を掘り起こす撮影者の視点と写真の構成がものを言う、「ドキュメンタリーフォト」あるいは「フォトエッセイ」とでも呼ばれるべき写真です。
洋之助はエルナの撮ってきた写真に「宝を掘る人」というタイトルを与え、写真をセレクトし、ストーリーに沿って構成します。
何気なく撮った写真に命を吹き込んだのです。
そして案の定その写真は売れます。
「妻が撮ってきた写真で将来の道を見定めるのもおかしな話かもしれませんが、、」と当人も語るように、その出来事によって、洋之助は写真の道に入ります。
もともと彼は器用なほうではなく、写真そのものには興味がない人間でした。
「ライカという簡便なカメラがなかったら、自分は写真をやっていなかった」とさえ言っています。
そんな人間が、何がネタになるのかを嗅ぎつけ、写真でストーリーを構成することに抜群のセンスを発揮するのは、面白い現象です。
それはつまり、その新しい表現が、写真そのものの良し悪しとは全く別次元の写真、レイアウトとキャプションによって、いかようにも表現可能な、新しい時代の新しい表現だったからです。
この、「物語るための写真」は、「LIFE」をはじめとするグラフ・ジャーナリズムの隆盛と共に、世界中で発展していきます。
洋之助が生きた時代は、まさにそんな時代であり、当時の彼の仕事は日本はもちろん、世界でも最先端をいくものだったのです。
そしてその手法は、名取を通じて日本にも持ち込まれていきます。
国際的カメラマンとしての活躍
さて、「ドキュメンタリーフォト」によって写真の道に入った名取洋之助は、持ち前のカンと溢れるバイタリティで、当時ドイツ最大の出版社、ウルシュタイン社の契約カメラマンにまで上り詰めます。
このウルシュタイン社は「ベルリナー・イルストリールテ・ツァイトゥング」という、ドイツ最大のグラフ誌を発行しており、最盛期の1920年代後半には200万部を超える部数を誇りました。
また、そこで活躍するカメラマンも、「燕尾服を着たカメラマン」として有名なエーリッヒ・ザロモンや、マーティン・ムンカッチなど、当代一流のカメラマンたちです。
ドイツは当時、最先端のグラフ誌&フォトジャーナリズム大国であったのです。
1930年代初頭、そんな最先端の国の最大の出版社で働いていた日本人カメラマンがいたということ自体、オドロキですね。
いかに彼がフォト・ジャーナリストとして優れていたかがうかがえます。
コスモポリタン名取洋之助
また、そこには、彼自身の素質や努力とともに、彼が持つ「外国人に好かれる性質」が大きな要因としてありました。
日本人でありながら、当時としては稀な、コスモポリタンな感覚を身につけており、また、育ちの良さも手伝って、彼は行く先々で外国人に好かれていたようです。
のちに、「LIFE」の契約カメラマンとなれたのも、ドイツ時代のスタッフの好意がかなり働いていました。
ちなみに「LIFE」はヒットラーによりドイツを追われた「ベルリナー・イルストリールテ・ツァイトゥング」の編集長、クルト・コルフが、タイム社主のヘンリー・ルースの要請を受けて立ち上げた雑誌です。
「『LIFE』はヘンリー・ルースが作ったのではなく、ヒトラーが作った」というのは、そのあたりの事情を皮肉った有名な言葉ですね。
洋之助はその生涯において、ヨーロッパ、アメリカ、中国、日本と、世界を股にかけて活躍しますが、外国人との友好は、常に彼の人生の支えとなりました。
そもそも彼の最初の妻は、ドイツ人のエルナ・メクレンブルクです。
このコスモポリタンぶりは、洋之助を特徴づけるの大きな要素の一つです。「和風洋風」の「洋」の字が名前に入っているのも、何か因縁めいています。
日本工房とグラフ誌「NIPPON」
さて、ウルシュタイン社の特派員として中国での取材を終え、東京に来ていた洋之助は、ヒットラーの外国人排斥政策のあおりを受け、そのまま日本に滞在し続けることになります。
そこで洋之助は、日本発の世界に通用するグラフ誌を企画します。
若い頃は文学や演劇にものめり込み、人一倍美的感性の強かった洋之助は、ドイツにいた頃、日本の雑誌のクオリティの低さに、歯がゆい思いをしていたのです。
そして、「日本工房」なる組織を作り、世界に日本を紹介するグラフ誌、「NIPPON」を創刊します。
カメラマン、デザイナー、編集者だけでなく、印刷会社まで巻き込んだそこでの制作体制は、いまや伝説となっています。
徹底したクオリティの追求、容赦のないダメ出し、そして贅沢なコスト。
一冊出すたびに家一軒分の赤字を出したと言われるその破天荒な制作スタイルはしかし、そうでなければ生まれないような破格の成果をもたらします。
写真に対しても、湯水のごとくフィルムを使い、気に入らない写真はカメラマンの目の前で破り捨てる徹底ぶりです。
そのような贅沢かつスパルタな環境の中から、土門拳や藤本四八をはじめとする戦後の日本を代表するカメラマンが育っていきます。
金は使うためにあるという哲学のもと、高い美意識と贅沢な制作環境をこの時代に持てたことは、奇跡と言っていいでしょう。
持ち前のバイタリティと裕福な家庭事情、そこからくる人脈を最大限駆使し、最終的には軍や国のバックアップを得て、当時としては超贅沢なハイクオリティ誌を、終戦の前年まで作り続けました。
日本工房は、ある意味洋之助のワガママの体現であったかもしれませんが、日本のグラフ・ジャーナリズムを世界に伍す水準に引き上げたことは、大きな功績と言っていいでしょう。
戦後の活躍
戦争中の洋之助は、中国に活路を見出し、現地においてさまざまな出版に携わります。現地に墓まで買っていました。
そして、日中友好のために東奔西走しますが、終戦後、戦犯指定のうわさを聞きつけ、失意のうちに帰国します。(戦犯はあくまでうわさでしたが)
そして帰国後、もう国と関わりを持つのはこりごりとばかりに、民間の毎日系の出版社から、「週刊サンニュース」という雑誌の発行を始めます。
週刊サンニュース
これは日本における「LIFE」を目指したもので、「写真で語る」という彼の哲学を実践したものです。
「右開き縦組み」がほとんどであった当時の出版界において、時代の先を行く「左開き横組み」を採用し、写真の選定からキャプションの文字数まで、彼の美意識をすみずみにまで行き渡らせました。
結果、時代の2歩も3歩も先を行く作りになり、売上的には芳しくありませんでした。
やはり彼は、売上よりも自らの美意識に忠実な男です。
最終的に右開き縦組みの一般的なレイアウトに変更したり、美人の顔写真を表紙にするなどの妥協も強いられつつ、結局1年半ほどで廃刊になります。
岩波写真文庫
そして次に、「岩波写真文庫」に取り組みます。
これは、1冊1テーマで、写真によってそのテーマを語る、といった内容です。
やはり洋之助の終生のテーマである、「写真で語る」に徹底した内容です。
第一回の配本は「木綿」「昆虫」「南氷洋の捕鯨」「魚の市場」「アメリカ人」といったタイトルです。
これらを写真を中心に、本文とキャプションによって、あらゆる角度から語るわけです。
テレビが普及する以前であり、また戦後の知識に飢えていた時代背景もあり、この企画はヒットし、第一回菊池寛賞も受賞します。
最終的に1950年(昭和25年)から1958年(昭和33年)までの間に、計286巻が出版されました。
「富士山」の回では、写真が気に入らないからと、カメラマンである洋之助自身が何度も撮り直しのために山に登ったというエピソードもあります。
完成度のために妥協を許さない姿勢は、他人のみならず、自分にも徹底しています。
その後、中国の麦積山石窟を取材したり、ヨーロッパのロマネスクの寺院に魅せられたりしながら、1962年(昭和37年)に、ガンのため永眠します。(享年52)
名取洋之助とは
とにかくコスモポリタンでバイタリティにあふれ、自分が「コレ」と思ったことは、どしどし推し進めていく男でした。
そんな男が写真を人生の仕事として選び、世界を股にかけて活躍するわけですから、日本の写真界に影響がないわけありません。
もともと器用なほうではなく、写真のテクニカルな面については興味もありませんでした。
ライカがあったから自分にも写真が撮れたと言い、実際、撮影が興に乗るほど露出やピントのミスも多かったといいます。
しかし、彼が信奉したのは、写真の「ドキュメンタリー性」です。
上手い下手ではなく、「何」を「どう」撮り、それをどうレイアウトし、どう説明するかです。
芸術性でもリアリティでもありません。
実際、芸術方面の写真を「お芸術」と言って軽蔑する態度を隠そうともしませんでしたし、木村伊兵衛に言わせると、名取の写真は「下手くそ」のただ一言です。
そんな名取はカメラマンとしてよりもむしろ、プロデューサー的な立場でその実力を遺憾なく発揮しました。
日本工房しかり、週刊サンニュースしかり、岩波写真文庫しかりです。
自らの美意識に忠実であった男は、強引とまで言えるやり方で、その美意識を忠実に体現しようとしました。
入門したての土門拳はこっぴどくやられて暗室で泣いていたと言います。
しかし、世界を経験した男のもとで、妥協なく育てられるのは、ある意味ラッキーであり、贅沢なことです。
実際、「名取学校」とも呼ばれたその制作現場からは、日本を代表する優秀なスタッフたちが大勢育っています。
父親が慶応義塾出身の実業家であり、母方の祖父が三井財閥の大番頭、朝吹英二であるという人脈も存分に生かし、戦前、戦後の日本で存分に活躍できたことは、写真界とっても出版界にとっても幸運な出来事だったのではないでしょうか。
日本の写真界に「フォトジャーナリズム」という、新しい視点をもたらし、「報道写真とデザインの父」とも呼ばれる名取洋之助は、日本という枠には収まりきらないようなスケールの大きな男でした。
まとめ
今回は名取洋之助という人物を紹介しました。
現在、携帯カメラやデジカメの普及で、1億総ジャーナリストとも言える時代。
NHKのニュースにも視聴者からの写真が使われ、SNSでは日々の些細な出来事も画像によって綴られています。
もはや「写真」は空気のように存在し、その意味についてわざわざ思いをめぐらすこともあまりありません。
しかし今から90年ほど前、「写真」がまだよちよち歩きだった頃、写真の利用に目覚め、写真の新たな活用とその実践に邁進した熱い時代が存在しました。
日本においてその熱の中心にいた人物、名取洋之助を振り返ることは、この現代においてはとても意義のあることではないでしょうか。
「物語るための写真」
フォトジャーナリズム、報道写真、あるいはドキュメンタリーフォト。
撮りっぱなしではなく、「考え、撮り、考え、選別し、考え、構成する写真」は、現代だからこそ改めて考えてみる価値がありそうです。
「撮るのは誰にでも撮れる。カメラマンとして大事な能力は、撮った写真を選別する能力だ」とも言っていた名取洋之助。
こんな現代であるからこそ、改めて見直してみたい人物です。
追記
ちなみに、名取の言うドキュメンタリーフォトに興味を持たれた方には、名取洋之助 著「写真の読みかた」がオススメです。