モノクロ写真。いいですよね。
「なんかカッコイイ」「アーティスティック」「ノスタルジーな感じ」
いろいろな印象があるでしょうが、おおむね「なんかイイ感じ」というのが大方の印象でしょう。
しかし、実際に世の中にあふれているのは、ほとんどがカラー写真です。
なぜでしょうか?
おおむね好印象なモノクロ写真なら、もっといろいろな場面で目にしてもおかしくないハズです…。
といった疑問などを読み解きつつ、今回はモノクロ写真の意味、楽しみ方、撮り方のコツなどをお伝えしていきましょう。
シンプルだからこそ奥が深い。これはモノクロ写真にもピッタリ当てはまりますね。
目次
「モノクロ写真」とは
まずは、モノクロ写真の歴史を振り返りつつ、その立ち位置を再確認しましょう。
モノクロ写真の一般的な認識
「なんか雰囲気がある写真になる」「アートっぽい」といった感覚の話ではなく、「実際」のモノクロ写真は、
「色が無い写真」
以上であります。
カラーに比べて、「色が無いだけ」。ただそれだけです。
ただそれだけで、「カッコイイ」とか「クール」とか、好意的に解釈されてしまうので、オトクな野郎であります。
しかしであります。
逆に、昔のモノクロしかなかった時代、カラーが登場した当初はむしろカラーのほうが時代の最先端を行く「オシャレ」だったのではないか?
色の無いモノクロなんてだっせぇぜ!そんなふうに思われていたのではないか?
と想像されますが、意外とそうでもありません。
特にアートの分野では、初期のカラーは低性能だったこともあり、かなり懐疑的な見方が大勢を占めていました。
アンリ・カルティエ=ブレッソンも、カラーが出た当初は、その複雑性と扱いにくさについて言及しています。まあ退色変色も激しかったようですし。
カラーはその場かぎりのインパクトのための広告用。アート写真はモノクロ。そんな認識が一般的だったようです。
そういう認識はウィリアム・エグルストンが1976年に、MoMAでカラーによる初の個展を成功させるまで続きます。
- モノクロ=高尚
- カラー=低俗
こんな印象は、じつは時代の新旧問わず、常に一貫していたのです。
カラー=具体的、モノクロ=抽象的
その理由について少し考えてみましょう。
カラーは言うまでも無く、より現実に近いです。なぜなら、現実には色があるからです。
そういう意味でカラーは「リアル」であり、現実を忠実に再現するという意味で、より「具体的」です。
たとえば服のディテールを写真で説明するにしても、色という情報がなければ、かなりの程度説明不足になります。
対してモノクロは、色がない分、非現実的です。
結果的に写真は抽象的になり、より、観念性を帯びてきます。
- カラー=リアル=具体的=実用的
- モノクロ=非リアル=抽象的=芸術的
そんな図式が見えてきますね。
記事の冒頭でモノクロ写真は好印象な割りに目にする機会が少ないということに触れましたが、それはこのカラー写真の「実用性」に由来する部分が大きいのです。
世の中で目にする写真の多くは、その「実用性」を利用されているにすぎませんので。
広告写真にしても報道写真にしても、「ものごと」を「伝える」ために写真を利用しています。決して純粋に写真を鑑賞するためではありません。そんな写真は美術館やギャラリーでしかお目にかかれませんね。
逆にそういう純粋な鑑賞が目的のアートの分野では、モノクロはまだまだ使われています。
デジタル時代におけるモノクロ写真
さてこのデジタルのご時勢。
モノクロ写真は、画像処理やカメラの設定によって、簡単に手に入ります。
また、ライカからはモノクロ専用のデジカメなんてものもリリースされています。さすがはライカです。
参考:ライカM-D(Type 262)が究極のデジカメである理由
参考:ライカM-Aによって、ついにレンジファインダーカメラはゴールに到達した
しかし、デジカメで撮った画像をただモノクロに変換しても、それはただの「色の無い写真」でしかありません。
たとえば、アートとしてのモノクロ写真は、アナログのプロセスによって得られるものが重要な役割を演じます。
たとえばフィルムの粒子感や諧調の出かた、それからバライタペーパーの紙そのものの質感や、乳剤だからこその諧調や質感。
そういったものも含めて「アート」なのです。ただ白と黒であればいいというわけではありません。
また、ノスタルジーな雰囲気も、そこにノスタルジーなものが写っているからこそノスタルジーであると言えます。
「今現在」を写しても、そこに写っているのはやはり「今現在」であって、よく考えてみたらそこにノスタルジーである理由は存在しません。
このように、ただ「なんとなく」だけでモノクロ写真を撮ってしまうと、その表現は根拠の無い弱いものになってしまいます。
モノクロ写真を操り、自由にその表現を楽しむには、その「特徴」と「魅力」を知り、それを生かした撮影をする必要があります。
【名作に学ぶ】モノクロ写真の魅力とそれを生かした撮り方
さて、モノクロ写真は「色が無い」ことが最大のかつ唯一の特徴です。
そのことから導き出される魅力と、それを生かした撮り方を名作から学んでみましょう。
「形」をストレートに見せる
写真が伝えるもの、それは「色」と「形」です。
そこから「色」を取ったら、残るのは「形」です。
そうです、モノクロ写真はカラーに比べて、ストレートに「形」に目が行きます。
「形」や「ものごとそのもの」を強調したいときに、モノクロを使ってみましょう。
たとえば、植田正治という写真家がいますが、彼の写真の醍醐味は、その「配置」です。
モノクロであるとそれがストレートに伝わってきます。
モノクロであるがゆえに写真が抽象化され、フォルム自体にストレートに目が行きます。
もしこれがカラーだったら、具体的すぎて興ざめでしょう。
モノクロであれば「シュールな世界観」ですが、カラーだったら「なにやってんのこの人たち?」になりかねません。
次はロベール・ドアノーという写真家の「パリ市庁舎前のキス」という作品です。
この作品の場合、モノクロであるがゆえに時間や場所といった具体性が弱まり、ただ「雑踏」と「キス」だけが浮かび上がってきます。
おそらくカラーであれば、「いつ」や「どこ」や「だれ」といった具体的な情報がもっとざわざわと主張してくるはずです。
しかしモノクロ写真は、そういったまわりの具体的な情報をすっ飛ばして、「それそのもの」に目を向けさせる力があります。
ドキュメンタリー写真でモノクロが効果的でよく使われるのには、こういった理由があります。
白と黒だけによる階調
また、「色が無い」ということは、無彩色、つまり白と黒とその中間のグレーだけの世界です。
そこでは「濃淡」だけで世界が表現されます。
水墨画が墨の濃淡だけで豊かな世界を表現できるのは、足りない情報を見る人が頭の中で埋めてくれるからです。
情報が少ないほど、見る人の頭の中に豊かなイマジネーションが広がります。
これが具体的的かつ細密に決められてしまったら、想像が広がる余地がありません。
そういう意味で、カラーはこっちから向こうに「見せる」写真、モノクロは向こうをこっちに「引き込む」写真、と言えそうです。
文学の世界に例えるなら、モノクロは、いかに少ない言葉で豊かなイマジネーションを引き出すかという「短歌や俳句」であり、カラーは、状況説明によって物語を進行させる「小説」です。
また、舞台芸術に例えるなら、モノクロは、いかに少なく微妙な動きで感情を表現するかという「能」であり、カラーは派手な演出と大げさな身振りで表現する「オペラ」です。
そう考えるとモノクロは、我々日本人の感性にもマッチした表現方法だと言えますね。
近代建築の巨匠のひとり、ミース・ファン・デル・ローエは「Less is More」、つまり、より少ないことは、より豊かなことだと言っていますが、まさにそれを地で行くのがモノクロ写真です。
少ない情報で豊かな世界をみせるのがモノクロ写真面白いところであり、醍醐味であります。
さてそれでは実例を見ていきましょう。
こちらは森山大道という写真家の「三沢の犬」という有名な写真ですが、なにやらただならぬ気配です。
ただ単に「白黒の犬」ということ以上のものが写っています。
モノクロによって、色という情報を切り詰め、なおかつ、フレーミングも枠いっぱいに犬で、余計な情報がありません。
そして、コントラストを上げることによって、グレー域の微妙なニュアンスも捨て、さらに情報を切り詰めています。画面内はほとんど「白」か「黒」です。
切り詰めるからこそフォルムがより際立ち、情報が少ないからこそ、作者の主観がよりストレートに伝わってくるのです。
まさに「少ないからこそより伝わる」です。
これがカラーで、なおかつ周りの状況がもうちょっと写っていたりしたら、単なる「裏庭のポチ」にしかならなかったかもしれません。
逆に言うと、単なる裏庭のポチを、モノクロという表現によってここまでの作品に仕上げることもできるということです。
次は打って変って、グレーの微妙なニュアンスが美しい、木村伊兵衛の「秋田おばこ」です。
秋田県のイメージアップキャンペーンのメインビジュアルとしても使われています。
秋田美人のアイコン的写真ですね。
眼差しと造形美にストレートに目が行き、「美人」を見事に抽象化しています。
モノクロによって情報を省略化するからこそ、「美人」そのものが浮かび上がってくるのです。
これがカラーであればただの美人の写真ですが、モノクロであることによって、アイコンの域にまで昇華されています。
モノクロは「説明」ではなく「ニュアンス」なのです。
断言するのではなく、「におわせる」のです。だから見る人はその意味を忖度するしかなく、そうやって写真に引き込まれざるを得なくなるわけです。
逆に見る人に忖度をあきらめさせてしまっては、モノクロ写真は成立し得ません。
モノクロをやるからには、見る人を引き込まなくてはいけません。
見る人にイマジネーションを広げてもらうための「省略」であり、そのためのモノクロなのです。
さてその省略ですが、この写真では、印象の大きな要素となる、「髪型」が省略されていますね。
顔の造作「だけ」を見せることによって巧妙に具体化を避け、被写体を抽象化しています。
細部を描写することによって、より、印象が「決められて」しまいますが、省くことによって、「決めない」のです。
「決めない」から終わらない。つまり、いつまでもこの写真に引きつけられ続けるのです。
省略の美学とモノクロは良くマッチします。
さてこの写真の巧妙な点はまだ続きます。
まず、髪型を隠すための笠は、同時に土地感を演出するための小道具でもあります。
なおかつその笠のラインを目の上ぎりぎりに配置することによって、より目ヂカラを強調しています。
さらにその目線も、引きつけた上で外すことによって見る人を永遠に忖度させる要素となっています。
目線が見る人と合っていると、行って戻ってで終わりですが、外れていると、行って→行って、そのまま帰ってきません。
そうやってまた、見る人との間に、終わらない関係を築いているのです。
つぎにモノクロの諧調について。
この写真は、その笠の陰によって、顔を単純に白にするのではなく、グレーで描いています。
ふつう女性の顔といえば、真っ白く飛ばしてしまいたくなるものですが、そうすると目立たせることはできますが、ニュアンスを描くことはできません。
白でもなく黒でもなくグレーは、階調が最もゆたかに表現される領域であり、微妙なニュアンスを表現しやすいのです。
「オツなもんです」「粋なもんです」が口ぐせの、木村らしい女性の描き方です。
なおかつそのグレー域を、笠の白と着物の黒で挟み込むことによってしっかりと分離しています。
また、着物の黒からそのままの流れでグレーとはならず、その間の半衿の白が強いコントラストを放って、画面を引き締めています。
これによって、だらりとしたグレー面という印象を救い、溌剌とした若々しさも演出します。
これらを雪曇りのような秋田らしい寒そうな印象でまとめていますが、実際は8月の晴天下にグリーンのフィルターを入れて撮影したといいますから、確信犯です。
木村伊兵衛の撮影が「名人芸」と言われるゆえんでしょう。
省略と抽象化、モノクロの諧調とその面の配置。
モノクロ写真のいろいろな面白さが、この写真には詰まっています。
まとめ
さて今回は、モノクロ写真についていろいろと見てきました。
名人には名人たるゆえんがあり、たまたまその時代にモノクロしかなかったからという、消極的な理由によって作品が成立しているわけではありません。
モノクロにはモノクロなりの積極的な意味と価値があるのです。
それを理解して使いこなすことこそが、このデジタル時代には意味のあることです。
それでは今回の記事のまとめです。
モノクロ=抽象的=非実用的=アート
そんな図式は、時代の新旧問わず一貫していましたね。
そして、カラー画像から単純に色を抜いただけでは、ただの色の無い画像であり、「モノクロ写真」にはモノクロならではの発想が重要ということもみてきました。
それは、色が無いゆえに、まず形に目がいくということ。
だから、「ものそのもの」や「ものごとそのもの」を際立たせる性質がある、ということです。
ものの存在感そのもの、または出来事そのものにせまりたい時は有効と言えますね。
それから、モノクロは色を省いた「濃淡」だけの世界、つまり、省略の美学が生きる世界です。
それは短歌や俳句、または能の世界にも例えられます。
いかに少ない情報でいかに豊かな世界を見せられるか。
これがモノクロ写真の一つの挑戦でもあります。
グレーの豊かな諧調さえも敢えて省いて、ものの佇まいそのものをより強調することもできますし、被写体そのものの省略と連動させることもできます。
最小のリソースで最大の効果を上げることは、ビジネスにもスポーツにも、家計のやりくりにも通じる話です。
ですからモノクロ写真は、ビジネスマンにも、スポーツマンにも、家庭の主婦にも、つまりはだれにでも楽しめる趣味、なのかもしれませんね。