2016年の11月、iPhoneやMacで有名なアップル社から、1冊の写真集が発売されました。
「Designed by Apple in California」というタイトルのその本は、過去20年のアップル製品の写真をひたすら載せているだけの写真集です。
IT機器メーカー、アップルから、まさかの「写真集」です。
その本の印象は、もはや「写真集」というよりも「プロダクト」です。
例の妥協のないクオリティが隅々まで行き渡ったこの本は、もはや「本」っていう感じではなく、iPhoneやMacなどに通じる「製品」という感じです。
アート書として扱われている、いわゆる一般的な「写真集」とはまるで異質であるがゆえに、あるいはそっち方面からはスルーされるような存在かもしれません。
実際、ネット上でもこの話題を載せているのは、IT系・ガジェット系のブログやメディアであり、アート系・写真系からの言及は、ほぼありません。
この写真集は今のところ、「作り込んだ記念品的カタログ」とか「アップルマニアのためのコレクションアイテム」といった立ち位置です。
しかし、この本は「写真集」としても「写真」としても、実に意義深い1冊であることは間違いありません。
今回は、そんな写真界にとっては「異端児」とも言えるアップル製写真集「Designed by Apple in California」をご紹介します。
前回のヴィヴィアン・マイヤーが、究極の「解放的」写真とすれば、今回の「Designed by Apple in California」は、究極の「集中的」写真です。
写真の奥深さは、この両極端な態度を全て飲み込んで、それぞれに素晴らしい活路を与えている点です。
目次
「Designed by Apple in California」とはどんな写真集か
大小2冊で発売されたこの写真集は、「大」が33×41.3cm、「小」が26×32.4cmです。
価格は「大」が30,800円、「小」が20,800円です。
「大」も「小」も、全く同じ内容の写真集です。ただサイズが違うだけです。
この発想がすでにぶっ飛んでいます。
真っ当な出版社なら、こんな発想はまず出てこないでしょう。
なんで全く同じものをサイズ違いで2種類出さなくてはいけないのか?
パンツや靴下じゃあるまいし。
普通の発想だと、全く意味不明です。
これは、iPhoneが「iPhone7」と「iPhone 7 Plus 」のように、サイズ違いで2種類発売されているのに通じるものがあります。
サイズが2種類の理由
アップルといえば、「極限までシンプル化する」というプロダクトで有名です。
かつては「1ボタンマウス」など、「1」にこだわっていた時期もありました。
そういう意味で、本来見せたいサイズ、本来「こうあるべき」という、アップルデザインの結論としての「完成形」は、iPhoneの場合も写真集の場合も「大サイズ」と言えるでしょう。
なぜなら、小サイズのほうが結論であるなら、あえて大を出す必然性が薄いからです。
アップルの目指す「完璧なプロダクト」というゴールが小サイズの方、つまり、「売れ筋」にかなったサイズであるなら、「理想」と「現実」が両方満たされ、それで満足です。
しかし、アップルプロダクトの理想が「大」の方で、その大きさが、市場の要求する「実用的」サイズでない場合、「利益確保」が最大のミッションである一企業としては、そっち向けのサイズも出さざるを得ません。
というか、普通の企業の場合は、「売れる」方だけを出しますが、売れる売れないに関わらず、「こうあるべき」という「理想」を出しちゃうのが、アップルらしいところです。
その結果が、この「2ラインナップ」です。
まあ、想像ですが。
この点は、「原理主義者」のスティーブ・ジョブズが生きていれば、こうはならなかったかもしれません。
このあたりは、より「実務的」な、ティム・クックがCEOとなったからこその経営判断ではないでしょうか。
価格について
次に価格について。
「大」が30,800円、「小」が20,800円。
写真集です。
この価格は写真集としては、ありえないほど高価です。
「普通の」写真集でこんな価格がついていたら、まあ普通は売れません。
しかし、この写真集の不思議は、この価格でもちっとも高いという感じがしないことであり、また実際に売れてしまうことです。
実際手に取ってみると、「まあそのくらいだろう」と、その価格に非常に納得がいってしまうから不思議です。
そして、実店舗では唯一の販売元であるアップルストア銀座では、発売日には1時間程度で当日入荷分が全て売り切れてしまいました。
こんなこと「普通の」写真集なら、ほぼありえません。
これはやはり、その発売元、販売方法、写真集そのものの質などが、「普通じゃない」からこその結果でしょう。
ちなみにこの本は、大小2冊同時購入するファンも少なくないみたいです。
昔のSMAPのCDみたいに、色違いのバリエーションを用意されたら思わず買ってしまうファン心理に近いものがあります。
案外それが大小2種類を用意したアップルの真の狙いなのかもしれません。(笑)
アップルの「写真」に対する態度
さてこの「普通じゃない」はどこからくるのか。
アップルにはかつて「Aperture」という、アドビの「Lightroom」みたいな画像編集ソフトがありました。
その独特のインターフェイスは、おそらく「写真」をやっているメーカーからは出てこないようなITメーカーならではの発想でした。
そして、iPhone搭載カメラのインターフェイスも、とてもカメラメーカーからは出てこないような発想です。
「写真」や「カメラ」にはそれなりの伝統があり、ある一定の「形式」みたいなものが出来上がっています。
長年やっているメーカーなら、大抵それを外しません。
それは言わなくてもわかる一種の不文律であり、一般的なカメラメーカーや写真関連メーカーが出すプロダクトは、基本的にそんな「カメラらしさ」「写真らしさ」の上に成立しています。
しかし、アップルによる写真関連のプロダクトは違います。
彼らは言ってみれば「門外漢」です。
伝統も形式も知ったこっちゃありません。
彼らが作り出すのは、伝統にとらわれることなく「まっさらな」状態から純粋に「いかにあるべきか」を追求したプロダクトです。
その結果、今までの「カメラっぽさ」「写真っぽさ」からはかけ離れた、全く異質のプロダクトが誕生します。
今回の写真集も、その流れで誕生した、「異質のプロダクト」と言えるでしょう。
しかし、「だからこそ」そこには注目すべき要素があるのです。
「内輪だけ」からは見えてこなかった要素を、そこに発見することができるのです。
アップルがこの写真集に込めた意味
さてこの写真集は、その画像があまりにもキレイであまりにも整っているので、パッと見「え?CG?」って思うかもしれません。
しかしこれは、アンドリュー・ザッカーマンという写真家が撮影した、れっきとした「写真」です。
今どきのCGは、炭酸水の複雑な泡なども非常にリアルに再現できるわけですから、アップル製品のようなシンプルなツルンとしたIT機器をCGで描くことは、もはや造作もないことです。
そして制作においては、自由に描けるCGのほうが、より都合に合わせて描けるという利点もあるでしょう。
しかし、あえて「写真」です。
実際、撮影のために、過去のアップル製品をかなりの程度「買い集めた」と、今回の企画の発起人でもある、デザイン最高責任者のジョナサン・アイブは語っています。
つまりアップルは、自社の過去の製品をストックしていなかった、というウソみたいな話ですが、それについてアイブは「未来に全力を注いでいるので、過去のプロダクトを保管するための時間と労力を割いていなかった」と話しています。
いかにもアップルらしい理由です。
そこまでしてこだわった「写真」の理由。
それはアップルの「モノ」に対するこだわりからきています。
我々が作っているのは手で触れることのできる、実感を伴った「モノ」である。
「理念」や「概念」という目に見えないものじゃなく、ちゃんと手で触って操れる「モノ」である、と。
アップルと言えば、その美学や哲学の方が取り沙汰されますが、そうじゃありません。
その美学や哲学を、きちんと手でさわれる、操作できる「モノ」という最終段階まで持ってきている、それこそが彼らの自負です。
理想だけなら誰でも語れる。
しかしその理想を「現実化」するのは容易ではない。
我々はそれを成し遂げた。
「物」だよ、モノ。
理想論でも概念でもないよ。
さわってごらん。動かしてごらん。
その手触り、操作感まで含めたリアルな「実体」。
その「実体化」こそが、我々の成し遂げたことであり、我々の誇りだよ、と。
写真集の前書きでも、前出のアイブは語っています。
「私たちは常に何を語ったかではなく、何を為したかによって評価されたいと思ってきました」
つまり、美学や哲学ではなく、それらを実体化した「行為」と、その結果である「プロダクト」こそ見て欲しいというわけです。
そして、そのプロダクトから逆に、自分たちの「行為」と「哲学」を感じ取って欲しい、ということです。
そういうわけですから、最も大事な成果である「リアルなモノ」を表現する手段として「リアルである写真」を使うのは当たり前の成り行きです。
最終結果である「プロダクト」こそが、自分達の存在意義であるのに、それらをCGで描くなんて、自分達の存在意義を真っ向から否定する「ありえない行為」なのです。
そしてそんな「モノ」に対するこだわりが、過去20年のアップルプロダクトを振り返る、という今回の企画においても「写真集」という「モノ」を選択させるわけです。
今回の企画は、ネットでスペシャルサイトを作ってもいいですし、データで配布してもいいわけです。
むしろ普通のIT企業であれば、そっちの発想の方が普通でしょう。
しかし、あえて「写真集」という「モノ」を選び、その作りにもハンパないこだわりを徹底させるのは、自分たちが「モノの作り手」であることにハンパない誇りと自負を持っているからに他なりません。
「Designed by Apple in California」に見る、写真集作りの新しさ
それではこの「Designed by Apple in California」が、写真集としてどのような意義があるのかを見てみましょう。
最初にも言いましたが、この写真集はかなり「異質」です。
巷にある多くの写真集は、あくまで出版業界の枠を出ていないので、どんなに凝った作りでも、ある一定の「枠内」に収まっています。
しかしこの写真集は、ある意味その「枠内」にありません。
まずそこに、この写真集の重要な意義があります。
製本
まず、何と言っても作り込みがハンパないです。
まずその異様に短い「チリ」(「表紙」の「本文」に対するはみ出し部分)からして、すでに見慣れないプロポーションです。
BMWという車は皆さんご存知かと思いますが、あれが「カッコイイ」のは、その短いオーバーハング(前輪から車体の最前面までの距離)が大きな要因です。
また同時に、短いオーバーハングはハンドリングのキレをもたらします。
そんな「カッコよさ」と「キレのよさ」みたいなものが、すでにこの短い「チリ」から漂っています。
それから、本の「背」の部分が、本体と表紙がピッタリくっついています。
普通ハードカバーの「背」の部分は、ページをめくった時に本体が表紙から「浮き上がる」ような構造になっていて、ページがめくりやすいようになっています。
しかし、確かにくっついているほうが、本に「一体感」が生まれます。
これもひとつの「新体験」です。
「門外漢」であるアップルのデザイン陣は、「なんで浮き上がるんだ?くっついているほうがクールじゃないか」と思ったのかもしれません。
しかし、「浮き上がる」のにはそれ相応の理由があるはずなので、「ピッタリくっつける」のは意外と大変なことが想像されます。
で、あったとしても「美学」を優先するのがアップルです。
そして、何の遊びも緩みも無い、端正すぎる方形。
それから白一面の表紙。
普通、表紙・裏表紙には、バーコードとか価格とか、ごちゃっと印刷してありますが、この本は何もないまっさらな白一面です。
その表紙も、紙ではなく亜麻糸で製本され、独特の手触りと質感です。
そして手触りの違いは、本文の紙にもあります。
その独特のなめらかさは、うっすら潤いすら感じさせます。
市販するならネーミングは「乙女の柔肌」がいいんじゃないでしょうか。
あながち誇張ではありません。
紙としては今までに触ったことが無いような質感です。
それはドイツで特別に作られたという紙ですが、なおかつその縁にはマットシルバーの箔が施してあります。
このシルバーの縁取りがまた効いていて、これがあるかないかでその存在感がまるで違ってくるので、さすがの目の付け所です。
印刷
次に印刷についてです。
普通の雑誌などで使われるオフセット印刷は、スクリーン線数175線程度ですが、この本では280線です。
「スクリーン線数」とは1インチあたりの網点(インクのドット)の密度のことで、要は印刷機の「解像度」のことですね。
ちなみに、写真の印刷原稿「350dpi」の根拠は、このオフセットのスクリーン線数(lpi)が、dpiの約半数に換算されるため、ですね。(すなわち175×2=350)
この本の印刷は、もはや肉眼で網点が確認できないのはもちろん、メカの内部の基盤にプリントされた文字まで読めそうな勢いです。
真っ白な背景にこの密度で描きこまれた写真は、独特のリアリティと存在感です。
このリアリティはメカやデバイスの写真には非常に効果的です。
そしてインクは「8色分解と低ゴーストインキ」となっています。
普通の印刷はCMYKの4色ですから、倍ですね。
特に原色や蛍光色が、見たことのない鮮やかさです。
おそらく製品の色再現もかなり正確なのではないでしょうか。
写真の「体験」とは
「写真」というものは必ず、プリントなり印刷なりモニターなり、なんらかのメディアを通して見るしかありません。
我々はが見ているのは、じつは「写真そのもの」ではなく、プリントなり印刷なりモニターなりの「中間物」です。
さらに言えばそれらは、インクの点やモニターのドットです。
印刷物である写真集の場合は、その体験を生んでいるのは、「インクのドット」や「紙」なわけです。
ですからその「ドット」や「紙」をどうにかすることによって、新しい写真の体験を生むことも可能です。
この写真集は、そういう意味で、写真の「新しい体験」をもたらしています。
特別な紙と、特別なインクと、特別な印刷方法によって、特別な写真の体験を生み出しています。
「Retinaディスプレイ」がディスプレイにおける新しい体験であったように、この写真集は、「写真集における新しい体験」です。
以上をまとめると、アップルでなければできない(あるいはやろうとしない)この本は、ほとんど博物学的な意味でコレクションしておきたいくらいの「新種」です。
「Designed by Apple in California」の写真集としての意義
さてこの写真集。
内容は、真っ白な地に、ひたすら製品写真が450点、基本時系列で並ぶだけです。
しかし、何の説明文も付かないので、明らかにカタログとは違います。
見せ方もカタログ的ではありません。
その製品のデザインのポイントを見せようとする意図は明らかです。
その写真は、明らかに製品それ自体に語らせようとして、それ以外の余計な要素を全て引っ込めています。
これは、製品それ自体が語る姿を注意深く見守った、ただそれだけの本です。
「1」のチカラ
「ただそれだけ」は、普通は貶し言葉ですが、ここでは褒め言葉です。
「ただそれだけ」は、なかなかできません。つい余計なことをやってしまいます。
「ただそれだけ」は、いろんなことをやるよりも、逆に難しい。
「ただそれだけ」ができるならば、それは偉大なパワーです。
と、谷川俊太郎ばりに語ってしまいましたが、全くその通りです。
例えば壁に穴を開ける場合、面全体に均等に圧をかけるようなことはしません。
必ず「1点」に集中して圧をかけます。
穴を開けるパワーを生むには、「集中」が必要です。
この本のパワーは、その「集中」です。
何かを伝えるとき、10コのことを1回ずつ言うよりも、1コのことを10回言ったほうが確実に伝わります。
あるいは、回りくどいことを沢山言うよりも、好きなら「すき」と1つだけを言うほうが遙かに伝わります。
以前の記事で、カメラ初心者の方に「確実にわかる小さなひとつを確実にやる」ということをお伝えしましたが、それもそういうことです。
「1」のチカラは偉大です。だってそれしかないんですから。
かつてアップルが「1ボタンマウス」にこだわったのもそこです。
物事を「それしかない」にまで落とし込むこと。
それがアップルの哲学ですが、この本でもそれが遺憾なく発揮されています。
物事を伝えるときは、徹底的に「絞り込め」。
これは私たちが実践する場合においても、確実に当てはまります。
前回のヴィヴィアン・マイヤーは偉大な「解放」写真でしたが、今回のは偉大な「集中」写真です。
450点の写真は一糸乱れず整然と、ひとつの目的に集中しています。
すなわち、アップルデザインの精髄を表現するという目的です。
この写真の用い方と、それに対する集中は、それ自体がすでにひとつの表現です。
IT筋、カジェット筋から「クールなアイテム」と認められるその「クール」の根源は、表現たろうとしないその態度によって逆に表現が立ち上ってくるというその点です。
この点は、アート筋、写真筋も大いに参考とすべきところです。
「用の用」と「無用の用」
芸術は「無用の用」と言われます。
箸や茶碗のように「実用的」な意味では役には立たないが、人の心に大きな意味を与える、というような意味ですね。
この写真集の存在は、金箔を奢ったり亜麻糸の表紙を奢ったり280線や8色を奢ったりといった「贅」の部分が目立つので、一見「無用の用」のようにも見えます。
しかしその写真集が真に表現するところは、実は徹底した「用の用」です。
戦艦の「美」についての話があります。
戦艦が「美しく」感じるとしたら、それは徹底して実用に徹しているからだと。
戦艦は戦いに勝つための道具なので、「美しさ」については基本考慮されません。
いかに合理的か、いかに実用的かのみに腐心して作られます。
しかし、その結果、「美」が生まれるとしたら、それは「美のための美」つまり「無用の用」の美ではなく、「用の用」の美です。
そして、「用」が美を生む契機は「徹底」です。
「徹底的」に、用を用たらしめることで、そこに「純度」が生まれ、その純度が美を生むのです。
HIROMIXの回でも同じような話をしましたね。
今回のこの写真集も、徹底した「説明」という「用」が、逆に美を生むという、ある意味「用の美」ということができます。
徹底的に表現を排除することによって生まれる「表現」
この写真集はまず、写真家の写真集ではありません。
普通、写真集といえば、「作家」の「作品集」といった体です。
「個人的」な「表現」の「場」。それが写真集です。一般的に。
しかしこの写真集は、そういった個人的な表現は志向していません。
そもそも主体は作家でもありません。
そもそもこの写真集において、カメラマンがアンドリュー・ザッカーマンだと、どれだけの人が知っているのかという話であり、どれだけの人がこの写真集のカメラマンを気にするのかという話です。
この写真集におけるアンドリュー・ザッカーマンの役目は完全に「マシン」です。
「正確に作動してくれよ」と期待される、「マシン」です。
この写真集の作り手が、何に対して正確を期待しているのかというと、我々のプロダクトを正確に表してくれ、ということです。
写真家は何の表現もしていません。
むしろ自らは姿を消して、被写体となるプロダクトそのものを可能な限り前面に出しています。
それは、表現を消すことによって逆に表現をまとう、というような、そんな「表現」です。
美に対する無頓着によって、かえって美が出てくる戦艦のような美です。
仕事に打ち込む男子がカッコイイのは、カッコつけてないからカッコイイのです。
「表現」はするもんじゃない、「立ち上ってくる」もんだ。
この写真集はそう言っています。
「ノイエ・ザハリヒカイト」との関連
さて、「ノイエ・ザハリヒカイト」という、一種の芸術運動が、1920年代のドイツにありました。
日本語にすると「新即物主義」となります。
要はそれまでの芸術のような「個人的な内面を表現」というようなあやふやなことではなく、モノそのものをありのままストレートに見せればそれで表現になるんじゃないの?ということです。
ほとんど今回の写真集そのままのことです。
アップルの矜持は、「モノの作り手」である、という点です。
「プロダクト」という結果が全てであり、「プロダクト」が全てを語っています。
この写真集は21世紀版「ノイエ・ザハリヒカイト」です。
この本は、徹底的に「個人的な表現」を排除し、「モノそのもの」を撮ろうとしていますし、実際そうしています。
この写真集は、「表現」というよりも「説明」です。
有機的な無機
しかし、「取扱説明書」なるものが、おおむね退屈で読む気のしないものであるのも、また事実です。
単なる説明では、およそ読む気がしません。
しかしこの写真集は、そんな「説明」がごく自然に流れていきます。
なぜならそれは、生命のリズムのような流れに乗っているからです。
「説明」する場合であっても、リアルにカタログのように、単なる同アングル、同サイズの単調な羅列は、逆に不自然で頭に入っていきません。
理解はできても、納得はできない。みたいな。
それよりは、何らかの変化、リズム、流れがあるほうが自然に頭に入っていきます。
「ブラウン運動」という現象がありますね。
液体中の粒子が不規則な動きをするというアレです。
あれのように、「自然」というものは不規則に運動してこそ自然です。
この写真集は、単なる製品写真の羅列ではありません。
写真のサイズ・アングル、ページ内の点数・配置場所、「切り抜き」か「裁ち落とし」かといった「レイアウト」に対して、細心の注意が払われています。
それは音楽リズムのように、単調なリズムの繰り返しでもなく、やはりブラウン運動のような不規則な流れです。
変化が読めないからこそ、その変化に驚くことができ、その驚きがさらに次のページをめくる原動力となります。
その変化は、ほとんどわざとらしさがなく、いかにも「自然」であるかのように流れます。
「変化」は意識させない。それを意識させたら肝心の「説明」が台無しになる。
しかし、「変化」がないことには、見る人が次のページをめくらない。
そのベストなバランス。
それは、「自然」であること。
ベストなのは、あくまで「自然」にページが流れること。
それによってはじめて「説明」という本来の目的は全うされる。
この「普通に見ることができる」の裏には、実は普通じゃない労力が費やされています。
またこのメカメカしさの中に「自然」を持ち込むことによって、無機のメカは生き生きとした生命感を得ています。
目には見えない、この縁の下の「レイアウト」が発揮する効果は絶大です。
しかし、それもこれも全て、アップルデザインの精髄を表現するという目的のための手段のひとつです。
この写真集を構成するどんな要素も全て、自分たちの本来の目的を忘れていません。
その「集中」こそが、この写真集のパワーです。
アップルのロゴから見えるアップルの哲学
それから写真で面白いのは、鏡面仕上げの「アップルのロゴ」にはいつも斜めのハイライトが入りますが、よく見るとこの入り方が製品によってまちまちなのです。
アップルのことだから、きっちり角度や位置が決まっているのかと思いきや、さにあらず。
そしてよく見ると、ハイライトには、かすかな「ムラ」も確認できます。
これは合成ではなく、手動で入れているということでしょう。
そのようなリアルな写真ならではの「ゆらぎ」がまた、一見無機質に見えるメカの写真に「生命感」を与えています。
アップルが写真にこだわった理由のひとつでしょう。
まとめ
さて、まさかの長文になってしまいましたが、これだけの字数を費やして言いたかったことはただひとつ、この写真集はなかなか面白い、ということです。
まず、そもそもの「本」という「モノ」として面白い。
それから、「写真集」という「内容」としても面白い。
まず、「モノ」としては、どこにも無い独自の存在感です。
「製本」的にもそうですし、「印刷」的にもそうです。
「写真」についても、これを「カタログ写真」と捉えずに、「写真集」と捉えると、その面白さが見えてきます。
「写真家」の「写真」ってのは基本的に「表現」を志向し、その表現なるものは「実用」では無いがゆえに、ある意味儚い存在感であることは否めません。
かといって、「実用」の写真は実用であるがゆえに、面白みに欠けることも否定できません。
この写真集は、徹底的な「実用」によって、その存在感を確かなものにしながら、その「徹底性」によってまた、ある種の「表現」をまとうという、ある意味「意欲作」です。
そして、「写真界」という、どっぷり写真しているところから出てきたのではなく、全く別種のジャンルから出てきたところがまた、この写真集を面白くしています。
ですから、今までの見慣れた「写真集」っていう感じがしない、という理由だけでこの写真集を「違うもの」として見るのは、もったいないことです。
むしろ写真をやっている、写真になじみのある人にこそ、見ていただきたい写真集です。
とは言え価格がちょっとアレですね。(笑)
アレな方は、現在アップルストア銀座で実物を展示していますので、お近くにお寄りの際にぜひチェックしてみてください。