趣味の写真において、「美しい」ということは、「それ以外になにがあるの?」というくらい本質的な部分です。
しかしながら、「美しい」ということは、とても捉えにくいことです。
目の前にポンとおいて、「はいこれが美しさです」などと、はっきりと指摘しづらいものがあります。
それは「具体的なモノ」というよりも、「感じるモノ」だからです。
最近、録画してあったNHKのリオデジャネイロオリンピック体操男子、内村航平の特集番組をみて(今さらですが…)、非常に感銘を受けましたので、その流れで今回のポストを投稿します。
内村航平、個人総合金メダルの要因はやはり「美しさ」でした。
目次
内村航平、個人総合金メダルの要因
内村航平とウクライナのベルニャエフの2者の争いとなった、リオ五輪、体操男子個人総合。
ベルニャエフリードで迎えた最後から2種目めの平行棒。
ベルニャエフは、得意種目であることもあり、16点台という高得点をたたきだします。
集中力維持のため、彼の演技を見ないようにしていた内村の耳にはしかし、「シックスティーン」という場内アナウンスの声が入ってしまいます。
「ここは食らいついていかないとヤバい」
そんな気持ちになった内村は、自然と演技にも力みが入ります。
結果、得点は伸び悩み、最後の鉄棒を残す段階で両者の得点差は0.901にまで開きました。
勝負は決まったと、ベルニャエフのみならず、会場の誰もが思いました。
しかしこの、「最後の最後」の段階において、内村の心境に変化が訪れます。
もはや「点差は見ていなかった」
内村はそう言いました。
そして、「いい演技ができれば、負けてもいいと思った」
そうも言いました。
体操の神様が下りてきたのです。
体操を「勝ち負け」の勝負事から、純粋な「体操」に引き戻したのです。
内村の演技の真骨頂。
それはご存知の通り「美しい体操」です。
「勝つ体操」ではありません。
「美しい」体操です。
ある意味吹っ切れた内村は、最後の鉄棒で会心の演技を見せます。
いつもの内村らしい演技です。「美しい」体操です。
対照的にベルニャエフは、平行棒の演技から40分という長いインターバルと、1位で最後の演技を迎えるというプレッシャーが重なり、無難な演技の上に着地ミスという失敗を犯します。
結果的に最終演技で明暗が分かれ、0.099点差でベルニャエフをかわして、内村が金メダルを獲得しました。
「獲ろうと思って獲った」金メダルではありません。
実際内村は、「いい演技ができれば、負けてもいいと思った」と言っています。
負けてもいいと思ったけど、いい演技に対して、勝手に金メダルがついてきた、というわけです。
事実、着地の減点がなければ、勝者はベルニャエフだったはずです。
そうです。この段階において、もはや金メダルなどどうでもいいのです。
本当に大事にしたかったものを大事にしたのです。
内村は土壇場で、「金メダル」よりも「体操の美しさ」を優先しました。
一つ前の演技までは得点を気にしていた内村が、最後の最後で本来の自分を取り戻しました。
なぜそんな心境の変化が起こったのか。
それについて本人は「自分にもわからない」と言っていますが、それはもはや「そうするしかない」という状況でしょう。
もはやあがいてどうこうなる状況じゃない、それよりも悔いのない演技をしよう、そう思ったのではないでしょうか。
得点が僅差であれば、まだ勝利に対する執着は捨て切れなかったかもしれません。
しかし、平行棒の演技で差がついたことで、逆に一種のあきらめができたのでしょう。
そしてある意味、金メダルへの執着が「ふっと」揺らいだところに、本来の自分の体操を思い出す「スキ」が出来たのではないでしょうか。
自分が体操をやる意味、自分にしか表現できない体操、自分が追及してやまない体操が、その「スキマ」から溢れ出てきたのでしょう。
世界中のアスリートが喉から手が出るほど欲しいと思う「金メダル」。
それのために全てをかけると公言して憚らない「金メダル」。
しかしその時、彼の発想はそれを超えました。
「美しい体操」
それができれば金メダルなんていらない。
彼はそう言ったのです。
「美しさ」ってなんだ
ではそんな、「金メダル」を上回るほどの価値を持つという「美しさ」。
それは一体何なのか。
もちろんただ単に「キレイ」ということとは少し違います。
「キレイ」は見た目にみえる結果でしかありません。
美しさのもっと本質的な部分。それは「一体化」です。
演技者は演技と一体化しています。
そして、見る人も演技と一体化しています。
内村の演技を見ている私たちは、ただ単に見入るだけしか、なす術がありません。
ここにおいて「演技者」と「演技」と「見る人」は一体化します。
全てが「ひとつ」になります。
つまり「美しさ」とは、全てを「ひとつ」にしてしまうことです。
全てがひとつであるがゆえに、敵も味方もない。優も劣もない。勝ちも負けもない。
全てが「ひとつ」であるがゆえに、比較する対象すらありません。
比較が生じないがゆえに、悩みも葛藤もありません。
悩みも葛藤もないがゆえに「パーフェクト」です。
我々が求めてやまない「パーフェクトな世界」は、「美」において実現することができるのです。
平凡な場合
それに対して平凡な演技は、「分析的」に見てしまいます。
「あーあそこでちょっとタイミングが遅れたな」とか、「ちょっと肘が曲がっちゃったな」とか。
演技とそれを見る人は「一体化」していません。分離しています。
その違いはきっと、平凡な演技において演技者は、「よしタイミングを合わせよう」とか、「よしちゃんと肘を伸ばそう」とか「考えながら」演技をしているのです。
「演技者」と「演技」が分離しているのです。
その結果、演技は「うまくいった」「いかなかった」という、分析的要素の積み重ねで出来上がっていくのです。
そして、その「うまくいった」「いかなかった」にも、「とてもうまくいった」や「まあまあうまくいった」などの度合いがあり、演技はますます分析的にならざるを得ません。
「考えながら」演技することは、演技を「分析的」にしてしまうのです。
演技者と演技の間には、「作る人」と「作られるもの」という分離があり、それがまた、演技とそれを見る人の間に、「作られたもの」と「それを観察する人」という分離を生みます。
すべてがバラバラの状態です。
「美しさ」と「平凡」の違い
美しさは「トータル」であり、平凡は「個別の寄せ集め」です。
「美しい演技」は全てをひとつにし、「平凡な演技」は各要素バラバラのままです。
「美しい組織」は、皆が一体となっており、「平凡な組織」は、各自バラバラの動きをします。
「美しい映画やライブ」は、見る人をひとつにまとめる力をもっており、「平凡な映画やライブ」は退屈です。
それはつまり、平凡さは「日常生活の延長線上」ということであり、美しさは「日常を超えた世界」であるということです。
私たちが「美」にあこがれるのは、そんな日常を超えたパーフェクトな世界に対するあこがれ、とも言えますね。
日常生活と「美しさ」
さて、私たちの普段の日常生活は、各自バラバラのまま、言ってみれば「差」の世界です。
バラバラであるということはつまり、各自に「差」があるということで、そんな「差」の「比較」によって、日常生活は成り立っています。
「付き合うならAさんとBさん、どっちがいいかな~?」
「なんでオレよりアイツのほうが給料がいいんだ!?」
「昨日は麺にしたから、今日は丼にしよう」
「この時間帯はきっと日比谷線のほうが空いてる」
何が得で何が損か。
どっちが効率的でどっちが非効率か。
売上は?人間関係は?今日の晩ごはんは?
比較比較比較。比較に次ぐ比較です。
各自に「差」があるから、必然的に比較が生まれます。
そして、比較の結果、「より得なほう」「より素敵なほう」「より満足できるほう」を選びたくなります。
「どっちでもいい」ではなく、そこには明確な「意図」が生まれます。
日常生活はそんな多数の「意図」と「意図」が複雑に絡み合う現場ですから、争いも生じるでしょうし、葛藤も生じるでしょう。
うれしいこともたくさんあるでしょうが、悲しいことも、残念なこともたくさんあるでしょう。
そんなごちゃごちゃした一喜一憂と消耗の毎日から我々を救い出してくれるものが「美」です。
「美」の中ではすべてがひとつです。
すべてがひとつであるがゆえに、争いも、葛藤も、競争もありません。
「美」の素晴らしさはそこです。
「相対的」な日常世界と、「絶対的」な美の世界
内村航平があのとき体操で目指したのは、「金銀銅」何色かや、得点が何点かという「比較の世界の体操」ではなく、それらを超越した「絶対的な」体操です。
君が何点、僕が何点という、彼我の差の上に成り立つ体操は、言ってみれば「相対的な」体操です。
君や僕や彼らの相関関係の上に成り立っていますので。
しかし内村の体操は、
「点差は見ていなかった」
「いい演技ができれば、負けてもいいと思った」
というように、点差も勝ち負けも関係ない体操、相関関係に依存しない体操、「それ」しかない体操。
言ってみれば「絶対的な」体操です。
他の体操と同じように見えて、根本的に次元が違うのです。
では私たちの「写真」に話を戻しましょう。
「勝ち負け」じゃない写真
さて、私たちが趣味で撮る写真。
それは、日常生活と同じように、比較と選択の世界で消耗しながらやることも可能ですが、内村のように「絶対的な」世界でやることも可能です。
自分の写真が全く上手いと思わない人、人に見せるのも恥ずかしい人、全然「いいね!」が付かない人、コンテストに出してもかすりもしない人。
そんな人は必ずいます。
なぜなら日常生活は「相対」の世界なので、勝つ人がいれば必ず負ける人がいるからです。
うまい人、たくさんの「いいね!」が付く人、たくさんの賞を取る人は、そういう「負ける人」の相対として成り立っているわけです。
「負ける人」がいなくて、皆が横並び一線だったら、「勝者」もいないはずです。
相対の世界では、勝者がいれば、必ず敗者もいます。
しかし、相対的な日常世界ではそういう「負け」の役割を付されてしまっている人も、必ずしも「勝者」と同じ土俵で勝負する必要はないのです。
勝ち負けの生ずる「相対」の世界ではなく、「絶対」の世界で写真をやればいいのです。
「絶対」の世界、すなわち「比較をやめること」です。
相対的な日常生活は「比較」によって成り立っています。
ですから、比較をやめることによって、写真は「絶対的」な写真になります。「それ」しかない写真になります。
そして、美しさが「絶対的」なものならば、逆の順序をいって、その写真を他とは比較しない「絶対的」なものとして取り扱うことによって、その写真を美しい写真に「してしまう」ことも可能です。
古代の日本人は、ただの草や木に神様が宿っていると信じ、それらを神聖なものとして取り扱いました。それによってそれらは「神聖なもの」になりました。
あなたの写真も、比較をやめて、あなただけに撮れる唯一無二の絶対的な美しい写真であると取り扱うことによって、それはそうなります。
あなたの写真を最もおとしめるもの、それはそれを「つまらん写真」だとする「認識」です。
あなたの写真は、実は全くつまらなくありません。比較の中で、日常の「相対的」な世界の中で、つまらなく「思わされている」だけです。
日常世界でどうにも負けの役割を付されてしまっている人は、勝ち負けとは関係のない世界で写真を撮ったらどうでしょう?
それによってあなたの写真は「美しく」なります。
あなたの写真は完璧に美しい。本当にそうですよ。
そのために他人の承認は必要ありません。
誰が言わなくても、あなたが「そう」だと言えば、それで終わりです。
なぜ人は「美しさ」を目指すのか
ところで、なんで内村は、美しい体操を目指すのでしょうか。
なんで人は、美しさにあこがれるのでしょうか?
それは、日常よりもそっちのほうが「本物」であるという直観があるからです。
日常生活にどっぷりまみれていて、うまい食い物が食べられればそれでいい、キレイなオネーチャンとお付き合いできればそれでいいという、「相対」の中の「グッド」なほうを選択できればそれでいいというだけの人もいれば、「何か違う」「もっと本質的なグッドがあるはずだ」と直観する人もいるわけです。
写真においては、「いいね!」がたくさん付けばそれでいい、コンテストで金賞が取れればそれでいいというだけの人もいる中で、何か違う、もっと本質的な写真があるはずだと直感する人もいるわけです。
そういう人が「美」を目指すわけです。
そういう人は、ただうまいものや、ただキレイなオネーチャンだけの人よりも、むしろ貪欲なのです。
もっとすごいもの、もっとグッドなものを求めた結果、「美」に行きつくのです。
実際考えてみると、何のために私たちは生きていますかね?
「よりウマイもの」「よりキレイなオネーチャン」と、比較検討と選択、その結果の満足と落胆を繰り返すためでしょうか?
比較検討と一喜一憂を繰り返して、いつの間にか年を取って死ぬために生きているのでしょうか?
それだけで終わってしまっては、全く生きることに意味を見出せません。
ですから人は「美」を目指したくなるのです。
写真を一喜一憂の道具に使うこともできますが、人生に意味を見出すために使うことも出来ます。
あなたならどっちを選びますか?
内村航平が教えてくれるもうひとつのこと
さて、話がずいぶん大げさになりました。内村航平から人生論に話が飛ぶとは思ってもみませんでした。(笑)
何?写真によって人生に意味を見出す?
「じゃあ具体的にはどうしたらいいんだ?」と聞きたくもなるでしょうが、マニュアルを与えられてそれをなぞる時点で、やっていることはすでに「比較検討」です。(笑)
ここまでこの文章を読んできたあなたならば、美しくありたいと思う心、なぜか勝手に美しさを目指してしまう衝動は、すでにあなたの中にあるはずです。
その衝動に素直に従えばいいのではないでしょうか?
あれ?前回のポストでも同じようなことを言いましたね?(笑)
参考:初心者にも撮れる!デジタル時代における「スゴい写真」の撮り方+α
ちなみに内村の話に戻りますが、番組の最後、インタビュアーが「一種目だけやり直せるなら、何をやり直したいか」という質問を二人にしました。
ベルニャエフは平行棒と言いました。やり直せばもっとうまく出来ると。
それに対して内村は、何もやり直したくないと言いました。
あれがあのとき出来るベストであり、悔いは何もないと。
パッとしなかった平行棒ですら、やり直すことはないと。
はい。内村先生はもうひとつのことを教えてくれました。
たとえ「美しくなかった」としても、それはそれでOKなのです。
より貪欲にすごいものを目指してもいいですし、別に目指さなくてもいいわけです。
どんな時でも、私たちは常に「ベスト」を生きているのですね。
美しい写真の撮り方
さて、絶対だの相対だの、難しそうに書いてきましたが、単純に美しい写真って、みなさんも普通に撮っていると思います。
何も難しく考えなくても撮れるのです。
というか逆に、考えないほうが撮れるのです。
「考える」ということは、ある部分に「ひっかかる」ということです。
そういうひっかかりのない、「スムーズ」な状態が、全てとひとつになるコツです。
サラリと撮って、なんか気分がよかった。
そんな程度です。
「人生の意味」とか、重く考えちゃだめです。
「人生の意味」は逆に「かるみ」の中に存在します。
本当に美しい写真って、意外と「すごい」という感じがしないと思います。
「なにも目指さない」のがコツです。
何かを目指すということは、「目指すもの」と「目指されるもの」の間に分離があり、「ひとつ」になっていません。
太宰治の「右大臣実朝」という作品で、
“大海ノ磯モトドロニヨスル波ワレテクダケテサケテ散ルカモ”
なんて歌がありますが、なんのひねりも衒いもない、ただそのまんまの歌です。
その情景を目の前にして、ただ単にシャッターを切ったかのような歌です。
そして文中ではこんな歌こそ「ほとんど人間業ではなく」「神品」だと表現しています。
そんなもんです。
そうです。もはやそのまんまで全ては美しいのです。
あとはただ単に「気づく」か「気づかないか」だけです。
まとめ
さて、内村の話から脱線に脱線を重ねて、例によってまとまりのない文章になってしまいましたが、とりあえずまとめましょう。
リオデジャネイロオリンピック、体操男子個人総合、最後の種目「鉄棒」。
内村航平はもはや誰とも競ってないし、何とも戦っていませんでした。
「美しい体操」
ただそれだけが、そこにありました。
勝ち負けよりも「美しい体操」を優先したその態度に、なにか「ハッ」とさせられました。
我々の写真も、たくさんの「いいね!」が付いたり付かなかったり。
賞を取ったり取らなかったり。
ほめられたりほめられなかったり。
何か「勝ち負け」のような一面もあります。
しかし、写真には内村のように、「純粋な写真」もあるはずです。
我々が趣味でやる写真の意義はそこにこそあるのではないか。
テレビを見ながら、そんなことを考えた次第であります。