齋藤孝さんの「質問力」という本を読んでいると、おもしろい部分が出てきました。
岡本太郎と徳川夢声の対談で、岡本が「まずい絵こそいい」と言うのです。
しかし、額面どおりその言葉を受け取ると、「じゃあ何でもいいのか?」となる。
もちろんそういう意味じゃないことは、皆さんもお分かりになりますよね。
読者によっては混乱するだろうと思ったインタビュアーの徳川夢声は、ここで「上手い絵・まずい絵」という軸に「いい絵・わるい絵」という軸を持ち込み、鮮やかに論点を整理してしまうのです。
これは、写真を把握する上でも、非常に有用な整理法だと思います。
というわけで、今回はこの「座標軸」を用いた写真の整理法です。
目次
「座標軸」の素晴らしい効果
岡本太郎と徳川夢声の対談は、「まずい絵こそいい」と言いつつ、結局はまずい絵にも「いい絵」と「わるい絵」がある、という話になります。
そして最終的に岡本が言いたかったのは、「まずくてもいいから『いい絵』を描け」ということでした。
これはただ単に「まずい絵を描け」と言うのとは、えらい違いです。
この本質を引き出さずに、「まずい絵」だけで終わっていたら、岡本太郎はただのヘンなことを言うオッサンで終わっていたはずです。
しかし徳川夢声によってそこに「いい・わるい」というもう1軸が持ち込まれ、論点がクリアになったおかげで、岡本太郎はヘンなオッサンを免れました。
(彼的にはヘンなオッサンで上等だったのかもしれませんが)
はじめは、「上手い・まずい」の「縦軸」のみの話だったのを、そこに「いい・わるい」という「横軸」を加えることによって、下半分の「まずい」が、さらに「まずくていい」という右半分と、「まずくてわるい」という左半分に分れたのです。
そして結局、岡本太郎の言いたかったことは、単純な下半分である「まずい絵」ではなく、その中でも、さらに右半分の「まずくていい絵」でした。
1軸では捉え切れなかった本質を、2軸によって捉えることができたのです。
「芸術は爆発だ!」の岡本太郎の爆発的発言から、ここまで鮮やかに論点の本質を引き出した徳川夢声の質問力は、なるほど一流と言わざるを得ません。
そして結局それは「2軸の力」、ということになります。
写真を「いい写真」「上手い写真」という座標軸上に位置づけてみる
そしてこの座標軸は、そのまま写真にも流用可能ですね。
座標軸というものは、対象物の位置関係が可視化される、大変便利な代物です。
というわけで、我々の写真も、この座標軸上に位置づけてみましょう。
まずは、この軸における「上手い・まずい」「いい・わるい」を、それぞれ定義しておきましょう。
「上手い・まずい」の縦軸
これは写真で言うと「プロフェッショナル度」を計る指標になろうかと思います。
つまりは技術的な完成度です。
露出、構図、ピント、ライティング、はたまた階調、発色、カラーバランスといった技術的要素が、教科書どおりに「上手く」撮れているかどうか、という点ですね。
ここで言う「上手い」とは、誰が見ても「良く撮れている」と認めざるを得ない、そんな写真と言えます。
「いい・わるい」の横軸
これは写真で言うと「アーティスティック度」になろうかと思います。
技術的な良し悪しではなく、「なんかいい」とか「グッとくる」とか、そういう数値では計れない要素です。
これは文字通り「計りようがない」と思われるかもしれませんが、梅佳代やHIROMIXみたいな写真を想像してもらうと分りやすいかもしれません。
「技術的にハイレベル」とは言いがたいですが、それでも写真集を出したり、賞を取ったりしています。
それはやっぱり技術力ではない部分で「いい」と思える要素があり、それが多数の支持を得ている、ということでしょう。
技術を抜きにしても、本当に「いい」ものには、個々の好みを超えて、多数の人に支持される力がある、ということです。
ちなみにこの2軸は、昔フィギュアスケートの採点が、「テクニカルメリット」と「アーティスティックインプレッション」で構成されていたのに近いものがありますね。(伊藤みどりの頃ですね)
座標軸上にポジショニングするなら伊藤みどりが左上で、カタリナ・ビットが右下といったところでしょうか。
まあ懐かしい話ですが。
今の選手なら羽生結弦も浅田真央も右上ですね。
とまあこの「座標軸」は、何にでも使えるわけです。
「いい写真」軸と「上手い写真」軸における4つの特徴
さて、2軸が交わる座標軸には、合計4つのポジションが発生します。
写真を単純に4つに類型化することによって、実にスッキリと把握することができます。
それぞれの特徴を見ていきましょう。
上手くてわるい写真
まず左上のポジションから。
ここは、技術的には高い完成度を誇りながら、グッと来るものがない、面白みのない写真です。
このことを一言で言うと、「イヤミな写真」と言えるでしょう。
上手いだけで心に響くものがないとしたら、下手をしたら「下手でなおかつ心に響かない写真(左下)」よりも始末が悪いかもしれません。
個人的な感情が渦巻くSNSにアップするなら、上手さをひけらかすだけの写真はあるいは最も避けねばならない写真かもしれません。
お付き合いで「いいね!」しているだけであって、その裏には「イヤミな写真だ」という感情が潜んでいるとしたら、、、SNSは全く恐ろしい場所ですねー。(怖)
「上手い写真」を撮ったならば、なおかつそれが座標軸上の右側に属する「いい写真」か、左側に属する「わるい写真」かをよく吟味したほうがいいでしょう。
上手い写真が全て「いい写真」ではない、ということも、この座標軸は教えてくれますね。
参考:写真が上手くなりたいなら「上手い写真」を撮ってはいけない、という話
広告写真の場合はそうでもない
しかしこのポジションは、広告写真では必須のジャンルでもあります。
というかむしろ、広告写真のメインストリームです。
広告写真のビジュアルは、アーティスティックな面白さよりも、「正確な描写」とか「商品の説明」という「機能」が優先される場合のほうがほとんどです。
まるっきりこの左上のポジションがドストライクです。
「感動云々」ではなく、商品を克明に描写するこの種の写真こそが、広告写真の王道です。
そしてそんないわゆる「ブツ撮り」も、勢い余ると「表現」の域にまで乗り上げてしまうことがあるから、全く写真というものは単純じゃありません。
上記は「製品カタログ」ではなく、立派な「写真集」です。(しかもどんな写真集よりも高い30,800円!)
参考:【Designed by Apple in California】アップルの写真集が切り拓く、写真集による新しい「体験」
上手くていい写真
次に、座標軸上の右上の部分にいきましょう。
ここは上手くてなおかついい写真という、何も言うことがない優等生的な写真です。
スポーツ万能・成績優秀、なおかつイケメンといったところですね。
このポジションの写真を一言で言うと、「ぐうの音も出ない写真」です。
いわゆる「写真家」や「巨匠」と呼ばれる人たちが、この部分に当てはまるのではないでしょうか。
サルガドなんてもはや、モハメド・アリのパンチのようにぐうの音も出ないですね。
一般的に言って、スポーツ万能・成績優秀でイケメンには誰もがなれるわけではありません。
というか、かなり不可能に近いでしょう。
しかし写真の場合、「上手くていい写真」というこの「優等生的写真」は、全く不可能ではないのです。
ここが写真の全く民主的なところです。
誰もが努力次第で、この最もおいしいポジションを狙うことが可能なのです。
写真というアメリカン・ドリームは、誰にでも平等にチャンスが与えられているのです。
「上手い・まずい」に関しては、技術を覚えて身につけることができます。
そして「いい・わるい」に関しては、何が「いい」かを知ることは簡単ではないかも知れませんが、全く不可能では無いはずです。
普段、成績は良くない、スポーツもダメ、イケメン?何それ?っていうキミも、写真において「優等生」になることは全然可能なのです。
この民主的な最後の秘境を開拓するかどうかは、キミ次第です。
まずくていい写真
次に「まずくていい写真」。
座標軸上では右下の部分です。
ここは実にハードルが高いポジションと言えます。
縦軸の「上手い・まずい」に関しては、ぶっちゃけ技術の習得によって、上手くなることはほとんど誰にでも可能です。
ほとんどの日本人が日本語をしゃべっているのと同じです。
これはセンスの問題ではありません。
日本語は覚えたら誰でもしゃべれます。
高度な単語や言い回しであっても、単純に「覚えれば」、誰でもしゃべれます。
しかし、日本語が高度にしゃべれるからと言って、誰もが感動的なスピーチが出来るわけではありません。
誰もがベストセラーの小説を書けるわけでもありません。
ここが難しいところです。ここが思案の合縁奇縁、です。
「いい」ってなんだ!?「面白い」ってなんだ!?「感動」ってなんだ!?
高度なテクニックを持っているからといって、誰もがいい写真を撮れるわけではありません。
座標の縦軸と横軸は、全く没交渉なのです。
そんな捉えどころのないものを捉えたこのポジションの写真は一言で言うと、「天才的写真」と言えるでしょう。
あるいはここの写真には「まずい」という要素も含まれるわけですから、「ヘタウマ写真」とも言えるかもしれません。
まず、このポジションの特徴の一半を担う「まずい」とは、技術を身につけない、あるいは技術を放棄する、ということです。
これは努力でどうこうしよう、というのではなく、「ヒラメキとカンで行く」という選択です。
すなわち「努力型」ではなく「天才型」ということです。
なおかつ、「いい写真・わるい写真」という捉えどころの無いものにおいて、多数の一般客から「いい写真」という評価を常に勝ち得る、嗅覚というかセンス。
この捉えどころの無い「いい」を「外さない」というのは、努力云々というよりもやはり「才能」と言いたくなります。
そして最初の話で岡本太郎は、「まずくても『いい絵』を描け」と言っていたわけです。
それがすなわちこのポジションですから、芸術も爆発するわけです。
つまりこの部分が「天才的部分」たるゆえんです。
ここにおいて先ほどの「優等生には努力次第でなれるよ」というのは、実はかなり厳しいということが判明するわけです。
絵に描いた餅、とまではいかなくても、もち米を育てるところから始めるくらいの覚悟は必要です。
しかし、「リアル優等生」よりは全然可能性は高いはずなので、諦めずにチャレンジしましょう。
まずくてわるい写真
最後に最も救いがたいポジションとなる、「まずくてわるい」写真です。
一体このポジションにどんな意味があるのか?と思われるかもしれません。
しかしここは、大部分の一般ピープルの納まる場所ですね。
この部分の写真を一言で言うなら「ただの写真」です。
いいもわるいもへったくれもない、「撮っただけ」の写真です。
我々が普段、スマホでパシパシ撮る写真もそうですし、パパママが撮る家族写真や、友達や恋人同士のスナップ写真もそうかもしれません。
しかしこの写真。
我々が「あっ」つって「パッ」と撮る写真。
この写真こそが、実は我々にとって最も身近で、最も愛すべき写真ではないですか?
「まずさ」も「わるさ」も、はっきり言って関係ありません。
そこに写っているもの、ただ「そのもの」の写真。
愛する人かもしれないし、どうでもいい些細なことかもしれません。
しかし、我々の日常に深く食い込む、こんな写真たちこそが、実は我々にとっての「写真」であり、写真が最も写真らしくある部分ではないでしょうか。
「見たもの」を「留めておく」という、このシンプルな機能。
それはアートにもなり得るし、商売として億を動かすことにもなり得ます。
いくらでも大仰に扱うことができますがしかし、元はごくシンプルな機能です。
忘れないでいたいことや、些細な記念日、ちょっとしたメモ。
我々の日常を構成する、そんな小さなものたち。
そんな小さなものに寄り添って、ごく小さな機能を発揮し続ける「ただの写真」。
実はこれこそが「本来の写真」ではないでしょうか。
最も救いがたいと思われていたこのポジションの写真は、実は我々にとって最も救いとなる写真になり得る。
ごく小さな1ショットが、どんなにお金を積んでも買えない効果を発揮することがある。
インドネシアのじゃんけんでは、アリが象よりも強いのです。
この救いがたいポジションは、実は一番「強い」のかもしれません。
まとめ
さて今回は、写真を座標軸で把握するという試みでした。
これによって、捉えにくかった写真の性質も、スッキリ捉えやすくなるのではないでしょうか。
まあ「ザックリ」ですが。(笑)
今回は、「上手い・まずい」「いい・わるい」という2軸で考えましたが、他にもいろいろな軸が考えられますね。
- 「自分のための写真・他人のための写真」
- 「好きな写真・嫌いな写真」
- 「いいね!が付く写真・付かない写真」
- 「撮りたい写真・撮りたくない写真」
- 「表現としての写真・記録としての写真」
等々…。
そして、2軸によって、4つのポジションが発生しますが、そのどれにも、それぞれ存在意義があるはずです。
今回、もっとも救いようがないと見られていた「まずくてわるい写真」も、考えてみると何気に大きな意味がありました。
「どんな写真にも、何かしら意味がある」
大切なことは「座標軸上のどこを目指すのか」よりも、「今あなたがいる場所の、その意味を知ること」かもしれません。