写真における「気持ちの問題」とは?

写真における「気持ちの問題」とは?

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スーパーコンピューター

写真がデジタルになって久しいですが、便利さと引き換えに希薄になっている要素もあります。

それは「気持ち」です。

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目次

「気持ち」とは

我々は日々言葉を発しますが、その裏には必ず「気持ち」が潜んでいます。

SNSで毎日大量に流れるタイムラインの文字の裏には、必ず書いた人の「気持ち」という原動力がひそんでいて、読む人間に必ずそれは伝わります。

我々は言葉を介して「気持ち」のやり取りをしています。

人の生活とは、この「気持ち」のやり取り、つまり波動の交換ということです。

物理的に肉体を生きながらえさせるのは、そのための「手段」でしかありません。

縦横高さというこの3次元空間において物事が展開されるというルールが存在する以上、物理的な肉体は不可欠な道具ではあります。

それは、将棋における将棋盤と将棋の駒です。

将棋をするために将棋盤と将棋の駒は必要ですが、大事なのはそれら物理的な「モノ」ではなく、「勝負の内容」であることは言うまでもありません。

我々の生活において大事なのは、技術やテクノロジーといった、いわば「道具」ではなく、それらを使って行われる「気持ちのやり取り」であることもまた、言うまでもありません。

「気持ち」とエネルギー

しかるに昨今、デジタルテクノロジーの進化によって、写真はその「気持ち」が見えにくくなっているという変化があります。

何のために写真を撮る?

それは「気持ち」の代弁です。

人間はエネルギーの発信源です。

人の身体からは日々エネルギーが溢れ出ていて、それらが言葉なり写真なり仕事なりに変換されて、世の中に出ていきます。

そして、他から出てきたそれらを受け入れて、つまり「エネルギーの交換」をして、世の中は回っています。

「エネルギー保存の法則」というやつですね。

エネルギーは形を変えるけれども、総量は常に一定に保たれると。

我々もまた、出ていくエネルギーと、入ってくるエネルギーによって、総量は一定に保たれているはずです。

このバランスが崩れたり、流れが滞ったりすること、それがすなわち「病気」とか「不況」とかいうことでしょう。

エネルギーは「流れている」状態が正常です。

「気持ち」と写真

さて、デジタルテクノロジーの流入とともに、写真においても「気持ち」の見えにくい写真が増えてきました。

いちいち例は挙げませんが、その点お感じの方も多いことでしょう。

HDRを駆使して、ありえないくらいキレイに整えられたランドスケープ。

フォトショップで能面のようにツルツルピカピカに仕上げられた美人。

まあこのご時世、いつでもどこでも目にするそれらの写真。

もちろんデジタル処理した写真「全て」というわけではありません。

しかし、ある写真に「気持ち悪さ」を感じたならば、それは文字通りそこに込められた「気持ち」を「バッド」であると感じているのです。

気持ちは「波動」に置き換えられます。

同じ位相の同調するような波動は気持ちいいと感じ、位相が逆の打ち消しあ合うような波動は気持ち悪いと感じる。

そしてもうひとつ別種の気持ち悪さは、そもそも「波動」が存在しないこと。

つまり「気持ち」が感じられないことです。

こちらから送り出すエネルギーに見合ったエネルギーが返ってこないと、エネルギー保存の法則が保てません。

出ていくぶんのエネルギーは入れたいわけです。

写真を見たならば、ポーンとはね返ってくる何かが欲しいのです。

しかし相手に波動が無いと、文字通り「なしのつぶて」です。

「気持ち」の不在

なんのテレビだったか本だったか、就職活動において人事の人が気持ち悪いと思うのは、就活生の「気持ちの不在」だそうです。

決して受け答えがマズいわけではない。

むしろマニュアルを棒読みするようなソツのない回答です。

でも、ソツのない代わりにリアリティもない。

気配を消してる。本人が見えない。

実物の本人を目の前にしながら、何の波動も返ってこないもどかしさにイライラさせられる、みたいな話です。

「逆位相」の波動にもイライラさせられるわけですが、そもそも「波動がない」ということにもイライラさせられるわけです。

こちらの波動に見合った波動が返ってこないと、エネルギー保存の法則が保てませんので、それが不快感を呼ぶわけでしょう。

しかしそんな就活生も、決して波動が「無い」わけではありません。

仲のいい友達と一緒だと、気持ち全開ではっちゃけるわけです。

これなどは「就活マニュアル」などの「非・気持ち」的なテクニックを詰め込み過ぎたおかげで、本人そのものの姿が見えにくくなっている例でしょう。

「気持ち」と写真

写真においても、「気持ち悪い」写真があるとしたら、それは「テクノロジー」や「デジタル処理」などの「非・気持ち」的なものを詰め込み過ぎたおかげで「気持ち悪く」なっているわけです。

この点、そもそも写真をいじるという発想のない、フィルムの頃の写真は、もっと撮り手の気持ちがダイレクトに反映されていました。

下手は下手なりに、上手いは上手いなりに、ちゃんとその人らしさが、いかんともしがたく横溢していました。

なぜなら、撮った「そのまま」だから。

昔は「下手な写真」「キライな写真」はあったかもしれませんが、「気持ちの悪い写真」というものは無かったはずです。

デジタル全盛の今でも、瀧本幹也氏のように「一発撮り」にこだわるプロカメラマンは多いですが、それは写真において何が一番大切かを知っているからです。

「気持ち」vs テクノロジー

しかしこの、「気持ち」を覆い隠してしまう「テクノロジー」の台頭は、ある意味歴史の必然です。

人類の歴史という脚本の中に組み込まれた、既定の路線です。

そして、これに「使われる」のではなく、これを「使いこなす」時が来るのも、また既定の路線でしょう。

ドワンゴの川上量生会長がスタジオジブリの宮崎駿監督に一喝をくらったテレビ番組を見た方も多いでしょうが、これこそまさに現在の状況の縮図です。

川上会長らスタッフが、人工知能によってCGを描くという研究の一端として、あるCG映像を宮崎監督に見せます。

それは人間が「頭」を使って移動するようなグロテスクな映像です。

宮崎監督はそれに対して「生命に対する侮辱」と一喝します。

そのCG映像は、まさに最先端をいくテクノロジーの成果でしょう。

AIには痛覚がないから、速く移動するためには「頭を足のように使う」という発想も生まれる。

川上氏はそういう「人」からは出てこない発想が面白いということが言いたかったわけです。

ごく単純に現時点のテクノロジーの一端を紹介したわけです。

しかし宮崎監督はそんなところは見ていません。

この、「気持ち」のかたまりみたいなアニメーション映画監督は、それを作り手の「気持ち」と受け取りました。

このグロテスクな映像が、作り手の「気持ち」であると。

もちろんその映像が「気持ち悪い」ものであることは、川上氏本人も重々承知です。

ゾンビの動きに使えるとか言っているくらいですから。

見てほしいのは、もちろんそこではありません。

しかしこの状況。このミスマッチ。

これこそがまさに現代の縮図です。

「気持ち」とテクノロジー

テクノロジーは進化するしかありません。

それはもうどうしようもない歴史の流れです。

しかし、人間の本質も変わりようがありません。

「気持ち」をなくして、ロボットのように物理的な体を生きながらえさせるだけで人間と呼べますか?

「テクノロジー」と「気持ち」にどう折り合いをつけるか。

気持ちがテクノロジーを、どう乗りこなしていくか。

それがこれからの時代です。

昔はテクノロジーはそんなに発達していなくて、現代から言えばほとんど「気持ち」だけの時代でした。

しかるに昨今、テクノロジーは急速に発達を遂げます。

今はテクノロジー先行の時代です。

それが「無波動」な若者や作品を生み出しています。

しかしそれに続く時代は、気持ちがテクノロジーに追いつく時代です。

気持ちがテクノロジーを使いこなす時代です。

宮崎駿の一喝はその象徴です。

おい、テクノロジーよちょっと待て、と。

逆にテクノロジーが気持ちを支配する可能性はあるのでしょうか?

アシモフみたいなSFの時代は来るのでしょうか?

それは来ません。

なぜなら人間は「気持ち」である以上、気持ちを捨てるのは人間をやめるときだからです。

「気持ち」と「コミュニケーション」と「勝ち負け」

チェスや将棋や囲碁で、コンピューターが人間に勝ったと盛り上がりましたね。

人間に対するテクノロジーの勝利だと。

しかし、あれらのゲームは本来「勝ち負け」じゃなくて、「コミュニケーション」です。

ああいったゲームだけに限らず、武道、スポーツ、ビジネス。

人と人が相対すること。

それは「コミュニケーション」です。

気持ちと気持ちのやり取りの場です。

勝ち負けとはまた別の話です。

件のHDR写真やフォットショップ美人は、コンピューターが人を負かそうとしているのと同じで、「勝負にこだわっている写真」とも言えます。

コミュニケーションではなく、「勝ち負け」。

勝ちたいからこそ、あらゆる手を尽くす。

最大限テクノロジーを利用する。

その結果、コミュニケーションとしての「気持ち」がどんどん薄らいでいく。

しかし、勝利の先にあるものはなんでしょうか?

テクノロジーは「解答」を求めます。

0か1か。

勝ちか負けか。

面接ならばこう聞かれたらどう答えるか。

作品においては「勝ち」を求め、面接においては「模範解答」を求めます。

しかし「求めること」の行きつく先は、それが「得られる」か「得られない」かの二極化です。

つまり「分裂」です。

「気持ち」は何も求めません。

「そうである」ことを確認するだけです。

なんの理屈もありません。

「ラーメン食べたい」や「あの子が好き」になんの理屈がありますか?

ただ「そうである」のを確認するだけです。

そしてコミュニケーションとは、そんなお互いの気持ちを確認するだけです。

そしてお互いの気持ちを確認すると、また新たな気持ちが芽生えてきたりします。

もちろんそこにもなんの理屈もありません。

ただ「そうである」だけです。

コミュニケーションとは理屈でもテクニックでもなく、ただそうであることをお互いに確認するだけです。

ただの「一体化」です。

あなたを私は理解し、私はあなたを理解する。

一つのものが二つに分裂するのがテクノロジーなら、二つのものが一つに一体化するのがコミュニケーションです。

「一」と「二」。

どちらがより根本的でしょうか?

「気持ち」の役目とテクノロジーの役目

そもそも、テクノロジーに対する情熱も、人間の「気持ち」から来ています。

人の気持ちが、テクノロジーの進歩を前に推し進めています。

はじめに「気持ち」が無ければそもそも何も始まりません。

テクノロジーだって何だって、「気持ち」という出発点から始まっています。

しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね

一日一歩 三日で三歩 三歩進んで 二歩さがる

「コンピューターが囲碁やチェスで人間に勝ったことがうれしい」

「AIの描くCGが頭まで使って走る発想が面白い」

「デジタルレタッチで写真をいかようにも加工できてサイコー」

テクノロジーは常に先走るのが役目です。

そんな前に引っ張る原動力は大いに必要です。

しかし、人の進歩は「三歩進んで 二歩さがる」です。

進みっぱなしということはありません。

テクノロジーが突っ走りすぎると、気持ちのほうがブレーキをかけてきます。

宮崎監督みたいに。

太陽系も、求心力と遠心力がバランスしているから成立しています。

太陽の求心力が弱ければ、惑星たちはすっ飛んでいってしまいます。

そして「人間の気持ち」という求心力は、いついかなる時も盤石の態勢で中心にあります。

太陽は中心にあって動きませんが、地球や火星がすっ飛んでいこうとするその強大な遠心力にバランスするほどの強力な求心力を秘めています。

全く動かない太陽が、ごっついスピードでぶんぶん回っているエネルギーの塊のような惑星たちを引きつけて微動だにしません。

これが本当の「パワー」です。

そして人の存在の核心にある「気持ち」こそが太陽です。

テクノロジーや人の身体といった「物理的な道具」は惑星です。

どちらも大事ではありますが、中心はどちらかを忘れてはいけません。

まとめ

ものごとには「順序」があります。

何が中心で何が周辺か。

テクノロジーや道具は使われるものではなく「使う」ものです。

必要なければもちろん、使う必要もありません。

しかし「気持ち」は人そのものです。

人が「存在している」というだけで、すでに波動を発しています。

テクノロジーや道具とは根本的に違います。

そのプライオリティについては、あらためて云々するまでもありません。

デジタル全盛の現在でも、あえて一発撮りにこだわるカメラマンも大勢います。

豊富なデジタル機材をふんだんに使える立場にいながら、あえて最もシンプルなカメラで、最もシンプルに撮るカメラマンもいます。

何が大切か。

順序はどうか。

次の新しい時代への一歩のために、あらためて確認しておきたいことです。

feel it

ちなみに今回の記事につけたパーマリンクの「feel it」。

これで検索してみると、「GLOBAL WORK」というファッションブランドがトップにヒットしました。

そしてそこのコピーが、

「感じるものだけが、本物。」

まさにソレです

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