ごはんは食べなければ死にます。
お金も稼がなければ生活できないので、仕事もやる必要があります。
しかし、趣味の写真は別にやる必要のないことです。
趣味の写真は、やらなくても死にはしませんし、何の腹の足しにもなりません。
じゃあなんでやるのか?
大金を消費するだけでなんの役にも立たない、むしろ後ろめたさすら感じる「趣味の写真」。
一体何のためにやっているのか、普段はあまり考えないかもしれないその点について、今回は突っ込んで解説します。
我々の趣味の写真には実は、「生きる意味」にも通じる、非常に大きな意義がありました。
これを読めばきっと、大手を振って趣味の写真に没頭できると思います。(笑)
目次
趣味の写真は「最強の行為」
恋愛論から入ります。
「やさしいから好き」「お金持ちだから好き」という「前提ありき」の恋愛は、本物の恋愛ではありませんね。
裏を返せば、やさしくなかったら好きじゃない、お金持ちじゃなかったら好きじゃない、ということですから。
ただ「好き」。
理由もなく「好き」。
恋愛としてはこれが最強です。
これを「行為」に置きかえると、「生活のため」とか「お金のため」という前提条件のつかない、ただ「好き」、理由もなく「好き」でやっている趣味の写真は、行為としては最強です。
みなさんが毎週末とか毎日とか、カメラでやっているその行為は、ロミオとジュリエットの純愛にも比すべき、とても価値ある行為なのです。
しかし純愛にしろ趣味の写真にしろ、なんで人はそんな必要もないことに夢中になる必要があるのでしょうか。
生きる意味とは
話は飛躍しますが、そもそも論として、人は何のために生きているのでしょう?
「人はパンのみにて生くるにあらず」
と聖書にも書いてあるそうですが、ただ生きるためだけに生きているとは、ちょっと考えられません。
ただ生まれて、ただ生きて、ただ死んでいくなんて、意味不明です。
わざわざ生まれて、わざわざ生きているからには、何か意味がないとオカシイと考えるのが普通でしょう。
じゃあその意味って何でしょう。
「行為」のプライオリティ
我々の「行為」をチェックしてみます。
二義的行為
まず、我々のする行為で「何かのため」以外のものってなんでしょう。
- 生活のため、子供のため、老後のため。
- 社会のため、会社のため、自分のため。
- 世のため、人のため、正義のため。
あれっ!?
我々のする行為って、ほっとんど「何かのため」によって埋め尽くされていますね。
では、これらの行為の本質って何でしょうか?
それは「~のため」という対象を必要としているところです。
- 生活のための行為は、そもそも「生活」がなかったら成り立たない。
- 会社のための行為は、そもそも「会社」がなかったら成り立たない。
そういう行為はつまり「二義的」ということです。
- 生活のための行為は「生活」が第一、「行為」は二の次。
- 会社のための行為は「会社」が第一、「行為」は二の次。
つまり、
- 「生活」がうまくいけば、「行為」自体は問題ではない。
- 「会社」がうまくいけば、「行為」自体は問題ではない。
そこにおいて「行為」は、二番手以下の最重要ではない要素に甘んじています。
一義的行為
では「一義的な行為」ってなんでしょう。
それはもう、言うまでもなく、「それ自体が目的」という行為です。
「行為自体」が第一であり、それ以外はない。
「行為自体」が最重要であり、それ以外の要素は二番手以下。
そんな一義的行為こそまさに、最初に言った「ロミオとジュリエットの純愛」であり、また我々の「趣味の写真」です。
生きる意味があるとしたら、そんな「一義的行為」こそがソレではないですか?
だってオリンピックに出たら金メダルを目指すのが当たり前です。
二義的、三義的な銀メダル銅メダルを目指す人なんていません。
「いや、私『金』じゃなく『銅』を狙っています」
見たことあります?そんな人。
人生という舞台に出場したなら、「一義的行為」という金メダルを目指すことが本来の意義ではありませんか?
一義的行為とは
ちなみに「一義的な行為」は自分のためですらありません。
「自分」もやっぱり、二義的行為である「何かのため」の「何か」に当てはまります。
趣味の写真は自分のためにやっていると思っているかもしれませんが、それは違います。
自分のためであるならば、何か自分にとっての利益があるはずです。
「楽しいから」とか「面白いから」、はたまた「いいね!」や「お小遣い稼ぎ」といった「利益」のためにやっているのなら、それはもちろん二義的行為です。
しかし、趣味の写真が「一義的な行為」であるならば、自分にとっての利益などは全然考慮しないはずです。
「ただやりたいからやる」
「どおにもやらずにはおれないからやる」
そこに自分の利益云々が顔を出す余地はありません。
「ただ」「やる」
それだけです。
自分のためですらありませんし、世のため人のためでも、もちろんありません。
もし一義的行為が誰かのため、何かのためになっているとしたら、それは「結果的に」です。
結果的に「自分のため」や「世のため人のため」になっているのであって、それを目的に据えてしまったら、とたんにその同じ行為が「二義的」になります。
「目的」のほうが第一になり、「行為」が二の次になるからです。
ですから一義的な行為は、誰のためでも何のためでもありません。
オリンピックの金メダルは、人々に感動を与えるために取るのではありません。
人々に感動を与えるのが目的であれば、あえてオリンピックの金メダルである必要はありません。
そんな超難易度の高い方法よりも、もっとほかに効率のいい方法があるはずです。
オリンピックの金メダルは、ただ取りたいから取るのです。
それ以外に理由はありません。
人々の感動云々は、勝手についてきたオマケです。
「人々は感動しませんが、それでも金メダル取りますか」と聞いて、「じゃあやめます」なんて言うアスリートは一人もいないでしょう。
感動云々じゃなくて、どおにもこおにも目指さずにはおれないから目指すのです。
同じく人生における一義的な行為は、ただやりたいからやるのです。
それ以外に理由はありません。
お金が儲かった、人々の賞賛を得られた、快感を得られた。
それらは勝手についてきたオマケです。
それらがなかったとしてもやる(やってしまう)のが、一義的な行為です。
一義的行為のメリット
じゃあ、「ただやるだけ」であり、自分にとっての利益にも考慮しない一義的行為に、一体どんなメリットがあるというのでしょうか。
驚いたことに、一義的行為には 何のメリットもありません。
「ただやるだけ」であり、なおかつ結果にも考慮しない一義的行為自体に何のメリット(実利)もないのは当たり前です。
じゃあなんのためにやるの?
そんなことよりも、おいしいものを食べたり、お金を稼ぐために時間と労力を使ったほうがよっぽど有意義じゃない?
ごもっとも。
一義的行為自体にメリットがあるとしたら、そういった「メリット・デメリット」の世界から自由になれることです。
メリット・デメリットを考慮しないということはつまり、メリット・デメリットを超越した世界です。
メリット・デメリットに振り回されることのない世界です。
そして正直、「悩み」というものは全て、メリット・デメリット(優劣・幸不幸)の比較検討から生じているので、言ってみればそれは、「悩みのない世界」とも言えます。
ジブリ映画ヒットの理由
「スタジオジブリ」といえば、いわずと知れたヒット連発のすごいアニメーションスタジオですね。
そこの主である宮崎駿監督は、もはや世界的巨匠で、映画は子供のためとか何とか、立派なこともおっしゃっています。
でも、ジブリがあれだけのヒットを飛ばしている理由は、そのご立派な哲学じゃなくて、純粋に映画作りが好きな点にあります。
もちろん、子供のためとか何とか言っているアレも、嘘ではありません。
ただしそれは二義的、三義的なことです。
彼にとっての第一義は、映画作りそのものです。
作らずにはおれないのです。
やむにやまれぬ衝動が、彼の中から湧き起こってしまうのです。
だから何回引退しても、また作り始めてしまうのです。
彼にとって映画作りは、ヒットだの子供だのが目的ではありません。
映画を作ることそれ自体が目的です。
ヒット云々は、彼のパートナーである鈴木敏夫プロデューサーが勝手にうまいことやってくれます。
逆に言うと、第一義の映画作りをしているからこそ、ヒットするのです。
その映画は、第一義であるからこそ「本物」なのです。
人は一義的な行為が本来の生き方
さて、人生において金メダルとも言える、そんな一義的行為。
そこに生きることが、本来の生き方と言っていいでしょう。
最近、生きることに疲れた、生きる意味がわかんない、と言っている人が多いのは、二義的な行為でしか生きていないからですね。
情報が出回りすぎて、「こうすべき」「ああすべき」があまりにも多い世の中です。
「行為」は目的ではなく、手段以下に成り下がっています。
現代人の、人生に対する「なんか違う」「なんかしっくりこない」という違和感は、銀メダルや銅メダルを目指せという世の中の価値観に対する違和感です。
金メダルの存在は、心の奥底では知っています。
でも世間の「銀だ!銅だ!」という喧噪にかき消されて、普段はまったく見えないものになっています。
いまこそ金メダルを本来の地位に取り戻しましょう。
そのための具体的なアクション、それが趣味の写真です。
趣味の写真には、そんな重大な意義があったのです。
ちなみに行為はどんな行為であれ、「行為自体」を目的にすることによって一義的行為に変換可能です。
「結果」を目的にすることによって、一義的行為が二義的行為に変化したわけですから、その逆も可能なはずです。
ですから今の生き方に疲弊している人は、二義的行為を一義的行為に変換することによって、本来の生き方に戻りましょう。
「仕事」なら、会社のため、お客さんのため、生活のため、ではなく、「それ自体を目的として」やりましょう。
行為は何だって「一義的」に変換可能です。
命の使い方
さて、金メダルを目指す人生において、生きることは目的ではなく「手段」です。
生きるために生きているのではなく、命は金メダルを取るために使うものです。
だからマイケル・ジャクソンの以下のような言葉も飛び出すのです。
マイケル・ジャクソンの例
マイケル・ジャクソン。
いわずと知れた、ポップス界のスーパースター。キング・オブ・ポップです。
彼の自伝に興味深い一節があります。
仕事に入ると、僕は本当に大変な自信家になります。計画に取り組む時には、それを百パーセント信じています。
僕は文字どおり魂(ソウル)をそこに注ぎ込むのです。そのためになら死んでもかまいません。それが僕なのです。
「MOON WALK マイケル・ジャクソン自伝」(河出書房)より
これは、世界一売れたアルバムとしてギネスブックにも載っている「スリラー」制作時の記述です。
世界一売れたアルバムは、そのために「死んでもかまわない」という人によって作られたのです。
これは、誇張表現でしょうか?
何かの比喩でしょうか?
いえ、文字どおりの意味です。
言葉どおり、そのまんまの意味です。
命は目的ではなく手段であり、「本来の目的」のために使うべきものであるという認識があるからこそ「死んでもかまわない」という言葉が出てくるのです。
それは世界一のアルバムを作る人だからできる、「特別なこと」でしょうか?
チェックしてみましょう。
趣味の写真における第一義的行為とは
一義的な行為においては、「結果」は見ません。
それはあくまで「オマケ」です。
だから世界一のアルバムを作ったかどうかは、ここでは関係ありません。
ではあらためて、あなたにもこんな経験がありはしませんでしたか?
たとえば趣味の写真で。
シャッターの瞬間を追いかけて追いかけて、極限まで追いかけて、息をするのも忘れていたことが。
息をするのを忘れていたら死にますよ、普通。
つまりその時間において、生存よりも大事なことが発生したのです。
あるいは、
納得のいくシーンを探して探して、どこまでも探して、ごはんを食べるのも忘れていたということが。
ごはんを食べるのを忘れていたら死にますよ、普通。
つまりその時間において、生存よりも大事なことが発生したのです。
撮影現場における一義的人々とそれ以外の人々の違い
スタジオアシスタント時代、何度も目にした光景。
フォトグラファー、ヘアメイク、スタイリスト。
現場に責任者として参加する「本人」たち。
そしてそれぞれの「アシスタント」。
それらの人々が撮影現場を形作っていますが、撮影中「本人」たちはほとんど食べ物を口にしません。
逆にアシスタントたちは、ものすごーく腹が減ります。
師匠が撮影に参加してる最中は食べるわけにはいきませんので、トイレに行ってすごい勢いでおにぎりをほおばって何食わぬ顔で帰ってきたりします。
消費カロリーの違いがあるのかも知れませんが、これが同じ現場にいながら、命を懸けている人とそうでない人の違いです。
命を懸けている人にとって、生存のための「食」は眼中にありません。
その時間、命は「手段」としてこき使われています。
そして、アシスタント時代には腹をすかせていた子たちも、自分が「本人」となって現場に参加すると、やっぱり食べません。
「死んでもかまわない」
チョット言いすぎなんじゃないの?ウソでしょそんなの?という表現は、わりとどこにでも見られる光景であり、あなたにだって、そんな時間は何回も訪れているはずです。
まとめ
人は、ただ生きるためだけに生きているのではありません。
命を意味ある行為に使うことが、「生きる意味」です。
では、その意味ある行為とは何か?
それは、「それ自体が目的」という、「行為自体」を最高位に置いた「一義的行為」です。
スタジオジブリがヒットする理由もそれですし、スリラーが世界一売れた理由もそれです。
そして、一義的行為においては、ヒットも世界一の売り上げも「オマケ」です。
そこにフォーカスしてしまうと、行為が二義以下に堕します。
実利は忘れましょう。
我々は、第一義的行為によって、実利のさらに上空を飛行しましょう。
高いところから眺めると、実利はとても小さく見えるはずです。
地上から見れば見上げるばかりの富士山も、上空からみれば小さなものです。
「いいね!」が付かなかった、佳作にも入らなかった。
それが何だというのです。
趣味の写真はそういった「実利」を超えた場所で行為してこそ、本来の面目躍如です。
喜ぼうではありませんか。
「趣味の写真」という我々に与えられた生きる意味を。そして生きるに値する人生を。
生きる意味は、どっか遠くに探しに行くようなものではありません。
趣味の写真に没頭しているあなたは、もうすでにその人生を生きています。