今回は前回までの記事の流れを受けて、「本当に満足ができる写真の撮り方」ということについて考えてみましょう。
前回:写真が上手くなりたいなら「上手い写真」を撮ってはいけない、という話
初級、中級と続きましたので、今回は上級編というようなノリですね。
皆さんは自分が写真を撮るときの「動機」を考えてみたことはありますか?
「なぜ」その写真を撮ろうと思うのか。
さらに大きな話を言えば、そもそも「なぜ」写真を撮り始めたのか。
この「動機」というものが、満足できる写真を考えるうえで大きな要因になります。
「撮れた写真」という結果は、元をたどればそれを生んだ「原因」に行き着きます。
ですから、「写真を変えたい」と思ったら、「原因」を変えるのが最も根本的かつ本質的な変更です。
そして、原因とはすなわち、「動機」とか「意図」とか呼ばれるものです。
結果を変えるために「結果そのもの」をいじるのは、服を着せ替えるようなものであって、「人そのもの」を変えるわけではありません。
どんなに服を取っ替え引っ替えしても、「人」そのものは変わっていません。
「見た目」が変わるだけです。
それに対して「原因」を変えるということは、「人」そのものを変えるということです。
根本的に「別なもの」にするということです。
これは写真に限らず言えることですが、望む結果があるならば、そうなる「原因」を最初にもってくることが、一番確実な方法です。
そうすることによって、ほとんど必然的な流れで、その望む結果に行き着きます。
朝顔の花を咲かせたいのに、ヒマワリの種を植える人はいません。
朝顔の花が欲しいなら、朝顔の種を植えるという、ごく単純な話です。
望む結果があるなら、「そうなる種」を植えるということです。
日常生活の例で言うと、「おにぎりを食べよう」という意図(種)は、その人をコンビニに向かわせ、レジにおにぎりを持っていき、お金を払うという行動を生み、そして最終的におにぎりにかぶりつくという結果をもたらします。
この最初の意図が「パン」なら「パンを食べる」というまた違った結果をもたらすでしょうし、「ラーメン」ならラーメンでしょう。
「結果」をたどると、そこには必ず「原因」があります。
ですから、結果としての写真をどうこうしようという場合、その原因に目を向けるのが最も根本的なやり方です。
しかし我々が写真を撮る時、そういった原因、つまり「意図」や「動機」を仔細に検討してみようという発想は稀です。
山を撮った、ポートレートを撮ったという「結果」については活発な議論が展開されています。
そして、ライティングがどうの構図がこうのという「途中経過」についても、議論は活発です。
しかし、それを撮った「意図」や「動機」については、あまり突っ込んだ議論がされません。
そういうわけで、今回はその「意図」や「動機」の部分を検討してみましょう。
「動機」と「満足のいく写真」は、どのように結びつくのでしょうか。
目次
写真を撮る「動機」を知る
意図や動機を正確に把握するって、実は意外とむずかしいものです。
自分が何を望んでいるかを今すぐパッと言えますか?
あるいは、どう望んだらいいかの方法を知っていますか?
写真撮影において一番難しいのは、実は露出でも構図でもなく、自分の意図を正確に把握することではないでしょうか。
若者たちがよく、「やりたいことがわからない」とか「自分探しの旅」などと言っていろいろな方法を試みますが、大学を卒業するような年になっても、まだ「よくわからない」と言っているのは、それだけその部分が把握しづらいことを物語っています。
写真を撮る「動機」がわからない理由
なぜわからないのかというと、周りに余計な情報が溢れているというのが、ひとつの原因としてあるでしょう。
「アレがいいぞ、コレがいいぞ」「いや、こっちの方がもっといいぞ」
そういう情報が溢れていて、それらに惑わされてしまう、というのは、まずあるでしょう。
写真の場合だと、「上手い写真の撮り方」とか「いい写真とはコレだ」といった情報、あるいは、すごくいい写真を見て、自分もそれと同じような写真を撮りたい、と思うようなことですね。
しかし、その意見、その写真は「それを言った人、撮った人」のものであって、自分のものではない、という点には注意が必要です。
「いい意見だな」「いい写真だな」と思うことと、「その写真を自分も撮る」ということは、全く次元の違う出来事です。
「いい意見だな」「いい写真だな」と思った写真をなぞることは、初期の段階では有効な学習法ですが、最終的には「自分の写真」を撮らないと、真の満足は得られません。
お手本の写真の「どこを」真似するのか
あなたが「いい」と思ったそれらの写真たちは、それを撮った人の「その人本来の」という「本物感」が、あなたに「いい写真だな」と思わせているのです。
つまり、その写真たちは、誰の真似でもないオリジナルな「本物感」がその本質なので、あなたがその写真を「真似る」ということは、「真似」という時点ですでに「真似ができていない」ということになります。
あなたが真似た元の写真は「本物」であり、あなたが真似て撮った写真は「真似」。
すでに全く別物です。
その2枚の写真を言葉で言い表すと、元の写真はオリジナルの自負と確信に満ちた「本物感」であり、あなたが真似たそれはお追従とへりくだりの「真似っこ根性」です。
というように、真似は真似をしたとたんに、すでにもとの写真とは似ても似つかないものになってしまうのです。
じゃあ、あなたが真似たものは何か?
それは「見た目」です。
最初の例のごとく、人間そのものを真似たのではなく、「着ている服」を真似たのです。
大好きな有名人の生き方そのものを真似るのではなく、ファッションを真似るのに似ていますね。
しかし、むしろ本当に真似るべきは、その「本物」の部分の方です。
すなわち、あなたが撮るときも、自分本来の「本物感」を出すことによって、見る人に「なんていい写真だ」と思わせることができるのです。
今までは、あなたが他の人の写真を見て「なんていい写真だ」と思っていたわけですが、今度は他の人があなたの写真を見て「なんていい写真だ」と思うわけです。
あなたが他の人の写真を見て「真似たい!」と思ったのと同じように、今度は他の人があなたの写真を見て「真似たい!」と思うようになるのです。
つまり、「本物」こそが目指すべき部分です。
「本物」であることによって、自分自身も深い満足が得られ、見る人にも深い満足を与えることができます。
「本物の写真」とは
「本物」とは何か。
まず言えることは、それは誰かの人真似では決して無い、ということです。
本物とはオリジナルということなので、誰かの真似、何かの真似では、決して本物になり得ません。
それは「本物のブランド品」と「偽物のコピー品」に似ています。
本物は自社工場で生産するしかありません。
つまり「本物」は、自分の内から出てくるものでしかあり得ないのです。
どっかからの借り物でこしらえることはできないのです。
この「自分の内から出てくるもの」。
これがなかなか難しいところです。
オリジナルであろうとしても、どこかに、誰かの影響や何かの影響が入り込みます。
何かを作ろうとすると、必ずどっかで聞いたこと、どっかで見たことが、影響を与えます。
そもそも、自分自身がそういった誰かや何かの影響で出来上がっている以上、完全にそれらから逃れることは不可能です。
ですから、「本物」というのは、誰かや何かの影響がそこにあったとしても、それを超える何かが、そこには存在するということです。
それは、撮った写真が見たことのある構図や、見たことのあるテイストであったとしても、それらに影響されずに存在するものです。
というか、見たことのある構図やテイストがそこにあったとしても、そっちに全く気が行かないくらいの求心力を持って見る人を惹きつける要素。
それが「本物」ということでしょう。
「本物」とは何か
「本物」というのはすなわち、「本当のこと」ということです。
「ウソ」や「ごまかし」ではないということです。
ですから「ウソ」や「ごまかし」を排除することによって、本物に近づこうとするアプローチも、もちろんアリです。
世の中って意外と、本音と建前でいうと、「建前」で構築されている部分が多かったりします。
嬉しくないことを嬉しいといったり、全然歓迎しないことを歓迎しますと言ったり。
そんな世の中に「本物」が登場すると、あらためて「本当のこと」のすごさに感動します。
本物の持つパワーとは、「本当のこと」が持つパワーであり、それはすなわち「心から信じることができるもの」ということです。
あなたのまわりに「心から信じることができるもの」なんてありますか?
それが、あなたの撮る写真において実現できたら、とてもワクワクしますね。
そして、建前が横行している世の中だからこそ、「本当のこと」を実現するのは難しく、だからこそ「本当のこと」の価値がより増大します。
「本物」を実現することによって、私たちは自分自身が真の満足を得、また他の人にも真の満足を与えることができます。
「本物」を実現することによって、「自分のため」だけでも、「世の中のため」だけでもなく、「全てにおいてオッケー」という理想的なカタチを実現できるのです。
「本物」の特徴
「本物」というのは、「自分の好きな」とか、「自分の撮りたい」とは違います。
「こういう写真が好き」とか「こういう写真が撮りたい」というのは、言ってみれば「好き嫌い」の話です。
しかし「本物」というものは、言ってみれば「法則」みたいなものです。
「1+1=2」というのは、好き嫌い関係なく、誰が見ても「その通り」と言うほかないものです。
「本物」というのは、そういう「法則」に近いものです。
「本当のこと」には、「あっちかな?それともこっちかな?」みたいな優柔不断はありません。
「あっちかこっちか」といった比較の話では無く、「それしかない」という、有無を言わさぬ1点です。
で、あるからこそ、パワーを持ち得るのです。
「本物の写真」と「好みの写真」の違い
「自分はこういう写真が好きです」というような、好き嫌いを表明しただけの写真に対しては、見る人も「あ、そうですか」としか言いようがありません。
好みというのは人それぞれですから、「これが好き」と言われても、「へ~そうなんですね〜」としか言いようがありません。
SNSにアップされるのはそんな写真が多いですが、それはSNSがコミュニケーションの場であり、仲間内で自分の好みを認めたり認められたりする場だからですね。
キレイな写真もある。上手い写真もある。ゆるふわな写真もあり、カッチリとした写真もある。
しかし「好みの表明」、あるいは「いいね!」をもらうためだけの写真は、仲間内でのコミュニケーション・ツールにはなり得ますが、逆に言うとそれだけです。
それらは赤の他人、さらに広く世の中全般にとっては、大した意味はありません。
しかし、そういう写真に飽き足らず、もっとパワーのある写真、もっと世の中や赤の他人にも影響を与えるような「本物」の写真を撮りたい、という向きも、もちろん出てきています。
写真がここまで世の中に浸透し、気軽に手が出せる面白い趣味として機能している今日、参加への敷居はぐっと下がって、いろんな人が気軽に参加しています。
ですから、いろんな志向や発想も当然そこには入り込み、その中から「もっともっと」という志向が発生するのも、当然な話です。
それは前回も書きましたが、「上を目指さずにはいられない」という、人が本来もっている性分ですね。
今回の記事は、そんな人たちのためのものです。
「本物の写真」の核心
「本物」の写真には、そこに「1+1=2」のような有無を言わさぬ絶対性があり、見る人も納得するしかないものです。
それは人の「好み」や「テイスト」を超えたものです。
「1+1=2」に好き嫌いもへったくれもありません。
好きだろうが嫌いだろうが「1+1=2」なのです。
そんな「法則」とでも言える絶対性。
それが「本物」である、ということです。
唐突ですが、なんでこの写真が名作かわかりますか?
構図なんて「最悪」とも言われる、「日の丸構図」ですし、被写体も何ら特別なことはありません。
オッサン二人をど真ん中に配置しただけの、ある意味「退屈さの見本」みたいな写真です。
しかし、この写真を「構図が被写体が」といったテクニカルな面から論ずるのは的外れです。
これが名作なのは、撮った人間が「あっ!」と思ってシャッターを押したその衝動にウソが無いからです。
つまり「本物」だからです。
この写真という花を咲かせたその種は、「純粋な衝動」です。
名作の条件
本物であるならば、それはいつだってシンプルです。
理屈をごちゃごちゃとくっつけないと説明がつかないような写真は2流3流です。
1流であるとは、1点の曇りもないクリアネスです。澄み渡る空のような明晰さです。
邪(よこしま)な夾雑物を取り去ったその先にある、もともとある本来性の純度です。
「あっ!」と思ってシャッターを押したその瞬間は、「天啓」とでも呼ばれるべきものです。
つまりこの写真の核心は、そのキャッチした「天啓」そのものです。
天の啓示なんてものは、そうそう降ってくるものではありませんし、人の頭で考えてそれをこしらえることもできません。
だから名作は名作なのです。
やはりそれは「本物」なのです。
結論
さて、結論です。
私たちが望むべきもの。それは「本物」と言えます。
もちろん「偽物」を望むこともできます。それは自由です。
しかし、偽物を望んでも、それは真の満足をもたらさないという意味で、望んでもムダです。
あんまり意味がないのです。
キレイなだけ、テクニック的に何の破綻もない写真、「いいね!」がたくさん付いたら、あとはタイムラインの彼方に消え去ってしまうだけの写真。
もちろんそれで満足だという段階もあるでしょうが、いつまでもそこに留まっているわけではありません。
たぶん人間はそういう風には出来ていません。
もっといいもの、もっと素晴らしいものと、常に上を目指さなくては気が済まないのです。この間も言いましたけど。
あなたは「どの程度」で満足ですか?
あなたの目の前は、360°、全ての方向に進むことが出来ます。
上に行こうが下に行こうが横に行こうが、それはあなたの自由です。その場に留まることも可能です。
そのような完全な自由を与えられてなお、上を目指そうというその衝動は、ほとんど神秘的ですらあります。
「満足のいく写真」
それを探る今回の旅でしたが、それは結局、撮れようが撮れまいが、人の理にかなったその「態度」があるならば、あなたの写真ライフはまず「満足」していいのではないでしょうか。
「満足のいく写真」はそれを撮ることではなく、それを目指すことに意義がある。
と、オリンピック憲章みたいな結論をもって、本稿を閉じたいと思います。
まとめ
さて今回は「初級編」「中級編」と続いた写真の撮り方シリーズ3部作の最後の「上級編」ということになりますね。
初級編:
中級編:
まだの方はこちら↑もぜひ参考にしてみてください。