さて、前回は初心者向けというような内容でしたが、今回は中級者向けと言えるかもしれません。
今回はある程度「上手い写真」が撮れるという段階において、「写真が上手い」とは本来どういうことかを考えてみる、という内容です。
「上手い写真を撮る人」というのはこのご時世、それこそ掃いて捨てるほどいるというのは、このブログでも事あるごとに書いています。
デジタル技術の恩恵と、情報の一般化とともに、もはや写真が上手いことは特殊な能力でも何でもなく、わりと誰でも当たり前に手に入れることが出来るようになってきました。
写真が上手いことは、もはや「普通」です。
この段階において我々が目指すべきは、もはや「上手い写真」でも「いい写真」でもありません。
自分の写真ライフに、何とは言えない疑問をお持ちの方、あるいは、いま現に「上手い写真」に取り組んでいる方も、ぜひ読んで参考にしてみてください。
目次
「上手い写真」は何のため?
さて、「写真が上手くなりたい」「いい写真が撮りたい」と思ってらっしゃる皆さんに、まず質問です。
「何のために?」
何のために「上手くなりたい」のですか?
何のために「いい写真が撮りたい」のですか?
するともうあっという間に、「上手い写真」「いい写真」そのものが目的ではない、ということに気が付きます。
本当の目的は、「いいね!をたくさんもらうこと」かもしれませんし、「コンテストで一等賞を取ること」かもしれません。
はたまた、「自らの芸術的表現を完成させたい」とか「プロになりたいんです」とか、そういうことかもしれません。
いずれにせよ「上手くなりたい」や「いい写真が撮りたい」は、「手段」であって、「目的」ではないはずです。
いやいや、「写真が上手くなる過程そのものが楽しいんです」「いい写真が撮れたらそれだけで嬉しいんです」ということも、まあもちろんあるでしょう。
しかし、それらもひっくるめてさらに「何のために?」と押し進めると、最終的には「自分が満足したい」というところに行き着くのではないでしょうか。
すなわち私たちが、「写真が上手くなりたい」とか、「いい写真が撮りたい」と思うのは、突き詰めると「自分が満足したい」ためではないでしょうか。
するともう、その「最終目的」のためには、写真は別に「上手く」なくても、「いい写真」じゃなくてもいい、ということが判明します。
上手い写真、いい写真は、単にその「最終目的」に到達するための「手段の一つ」であって、よくよく考えてみれば、それ以外の手段もたくさんあるはずです。
上手い写真、いい写真は、あたかも「それしかない」かのような顔をしていますが、それらは実は、金科玉条のごとく信奉するほどのものではないのです。
そうです。
写真は「上手くなくても」「いい写真じゃなくても」いいのです。
ここにおいてまず私たちは写真の「無限の可能性」に気が付きます。
最終的には「自分の満足」が目的なわけですから、そのためにはあらゆる手段が可能であり、必ずしも「上手い写真」「いい写真」だけがそのための手段ではない、と。
「手段」と「目的」の順序
そうなってくると、まず明らかにしなければいけないのは、「最終目的」となります。
何によって自分の満足を得るか。
「他人からの評価」というのは、まずひとつ大きな要素ですね。
「すごいね~!」「超カッコいい~!」「まじヤベぇ!」
そんな周りからの評価によって、改めて自分の存在に価値を感じることができる。それはひとつの大きなポイントです。
あるいは、周りからの評価なんて関係ない、自分は自分の追い求める写真が撮れればそれが一番の満足だ、という考えもあるでしょう。
いずれにしても、手段を取る前に、どう考えても最終目的をハッキリさせることのほうが先です。
なぜなら、目的を達成するための「手段」ですから、目的を決めないことには、そのための手段も決まらないからです。
しかし実際は、最終目的をあいまいにしたまま、「上手い写真」「いい写真」という、本来「手段」であるはずのものを「目的」としてしまっている場合が多いのではないでしょうか。
なるほど上手い写真が撮れました。「で、どうしたいんですか?」ということです。
目的不在が当たり前になってしまう理由
では、なんでそういうことになるのかと言うと、世間が「上手くなりたいのは当たり前」「いい写真が撮りたいのは当たり前」と、それらを「前提」として話を進めてしまっているからです。
ちまたに溢れる「ハウツー本」や「ハウツー記事(ウチも含めてね 笑)」には、具体的な数値の設定、レンズの選択、被写体の選び方など、「上手くなること」「いい写真を撮ること」だけが事細かに書かれているので、単純にそれらだけを読むと、「上手く撮る」「いい写真を撮る」は、当たり前に目指すべきことなんだと、ほとんど無意識の内に思わされてしまいます。
しかし、それら「売り物としての情報」は、当たり前ですが「ニーズのあること」つまり「売れる内容」を書くわけですから、あくまで「万人に対して」「わかりやすく」「具体的」です。
そして、「万人に対して」「わかりやすく」「具体的」である指標が、すなわち「上手い」とか「いい写真」です。
構図の適不適、露出の適不適、機能の選択の適不適といったものは、万人が理解しやすく、具体的な指示が可能で、そして結果も出やすい。
「わかって」「納得して」「よかったー」を、なるべく多数の人において実現することを念頭に書いているわけですから、必然的にそういう内容になります。
そういうわけで、初心者の段階からそういう本や情報で育ってきたアマチュアカメラマンたちは、「上手いこと」「いい写真を撮ること」を目指すのは、「当たり前の前提」であり、そこに疑問を差し挟むことなく、ここまでやってきたわけです。
そして、それらのおかげで、ある程度「上手く」「ソツなく」撮れるようになります。
しかし、ある時期が来ます。
「なんか面白くない」「なんだこのやらされ感は?」
そこで、ふと冒頭の疑問を思うのです。
「何のために?」と。
写真のレベルと「上手い写真」の関係
ある意味「上手くなること」「いい写真を撮ること」という、生まれた時から前提として与えられていた目的をある程度達成する段階で、「はて、ここまで来てみたけれど、何のために来たんだっけ?」となるのです。
そして、そういう自動的に与えられていた目的ではなく、自分オリジナルの「本来の目的」に自覚的にならないとこれ以上は前に進めない、という時期がやってくるのです。
もちろんそこには目を向けないで、ただ「上手い写真」「いい写真」を、なんとなく撮り続けていくことも可能です。
しかし、それは言ってみれば中学校を卒業する段階が来たにも関わらず、卒業を拒否するようなものです。
卒業を拒否して、いつまでも中学生で居続けることは、もちろんリアルの学業ではないので可能です。
しかし、ほかの子たちが、高校・大学と進級していく中で、いつまでも中学生にとどまっていていいんですか?という話です。
実際、ただ単に「上手い写真が撮れる」というレベルは、写真を人生に例えると中学生程度のもんです。
もちろん、中学生になったばかりの子の視点から見ると、いかにも自分は立派になった、大人になったという誇らしい気分かもしれません。
しかし、高校生・大学生から見ると、もちろん全然子どもです。
「上手い写真が撮れる」というのは、そんな程度のことです。
なのに、皆が高校・大学と、大人の階段を昇る中で、君はまだシンデレラのままでいいんですか?という話です。
しあわせは誰かがきっと運んでくれるわけではありません。
いかにも自分は少女だったよなーと、いつの日か想う時がきっと来ます。
写真の本当の「上手さ」とは
さてこのご時世。
上手い写真、キレイな写真、カッコいい写真が溢れかえっておりまして、そういう状況がまた、人々の「上手くなりたい」「いい写真が撮りたい」に拍車をかけています。
しかし最初にも言った通り、写真は「上手くなくても」「いい写真じゃなくても」いいのです。
なぜなら本来の目的は「自分が満足するため」ですので、それが達成出来れば、下手でもダサくてもいいのです。
ちょっと前に記事にしたHIROMIXなんかは、一般的な意味で言えば下手の見本みたいな写真だし、梅佳代なんかも、お世辞にもカッコいいとは言えません。
しかし、おそらく二人とも、思った通りドンピシャの写真を撮っているはずです。
ピッタリ「目的どおり」の写真のはずです。
そういう意味でこの二人は「写真が上手い」のです。
そして、写真のレベルも「相当高い」のです。
自分が撮るべき写真をキッチリ把握し、ピッタリそれに合わせた写真を撮ってくるという意味で「上手い」のです。
ただ漫然と無目的に「上手い写真」「いい写真」と呼ばれるものを撮っているわけではありません。
「大人の写真」とは
しかし、「本来の目的」不在のまま、なんとなく「上手い写真」「いい写真」を撮り続けてしまうのは、周りの状況がそれを要求する、というのも大きな要因としてあるでしょう。
このご時世、「なんだこのプレッシャーは」っていうくらい、写真は上手くあるべき、カッコよくあるべき、という状況に見えます。
それなりに写真をやっているならば、「上手い写真」や「カッコいい写真」じゃなければ、見せるのも恥ずかしいというわけです。
しかし、このレベルに達したあなたが見るべきは、そういう外の状況ではなく「内」です。
前回も言いましたが、外してはならない1点は、
その行為は自分の「内」から出たものか、それとも「外」から与えられたものか。
です。
実際、周囲の状況に逆らって、「自分本来の写真」を撮ることは、ものすごいエネルギーが必要なことかもしれません。
しかし、「大人になる」とはそういうことです。
「大人になる」とは「自立する」ということです。
自分の写真を「周りに決められる」のではなく、「自分で決める」。
それが大人になるということです。
「写真の上手さ」とは「コントロール力」
というように、本当の「写真が上手い」とは、「上手い写真を撮ること」ではなく、目的にぴったり合致した写真が撮れる、ということです。
「自分を満足させる」のが目的であれば、ちゃんと自分が満足できる写真が撮れる、ということです。
それは、「いいね!」をたくさんもらうことによって達成されるのであれば、ちゃんと「いいね!」がたくさん付く写真がとれる、そして、「一等賞」を取ることによって達成されるのであれば、ちゃんと「一等賞」が取れる写真を撮る。
つまり、ほんとうの写真の上手さとは「コントロール力」と言えます。
撮る写真を、ちゃんと自分が望むポジションに落とすことができる。
望んだ写真をちゃんと撮ることが出来る。
プロカメラマンは、いわゆる一般的な意味での「上手い写真」は眼中にないという話をしましたが、それでも「写真が上手い」と言えるのは、プロの撮影は「クライアントの利益」という目的に合わせた写真をキッチリと上げてくるからです。
プロの写真は「上手い下手」ではなく、「目的に合致しているか、していないか」でしたね。
つまり、いくら「上手い写真」「カッコいい写真」が撮れたとしても、それが自分に何の満足ももたらさなかったら、実は何の価値もないということです。
「上手い写真」は、それによって「満足」や「結果」がもたらされた時に初めて「価値」が発生するのです。
ただ単純に「上手い写真」「カッコいい写真」が撮れたらそれだけで嬉しかった時代が過ぎたら、その先にある「本来の目的」に自覚的になることによって、我々の写真はひとつ上のレベルに行くことが出来ます。
「目的」を知ること、そしてその目的に合った写真を撮る、ということを、いま一度考えてみてはいかがでしょうか。
その写真はあなたに本当に満足をもたらしますか?
まとめ
人間、どっかで古い殻を脱ぎ捨てて、新しくなるタイミングというものがあります。
さなぎが蝶になることもそうだし、ちょんまげを捨てて列強に伍する道を選んだ明治維新にしてもそうでしょう。
我々の写真ライフにもそれはあります。
それは、「やらされていた写真」から「やる写真」への転換です。
右も左もよくわからなかった初心者の段階から、いろんな参考書を手がかりに、ひとまず「撮れる」という段階にはなった。
さてここからが「グラン・ジュテ」です。「私が跳んだ日」です。
跳躍には不安や恐れが伴う。
生ぬるい日常にこのまま浸り続けることも可能。誰も止めやしない。
それでも人は跳ぶ。
なぜでしょうか?
それは、人は進歩を志向する生き物だからです。
人間とほかの動物を隔てるもの、それは「進歩への志向」です。
これが無かったら今ごろは我々も、木の上で葉っぱを食べて生活をしていたはずです。
しかし我々の祖先は、いつまでも木の上で安穏としていることを良しとしなかった。
そして未知の荒野を選んだ。
不安と恐怖を乗り越え、安穏な生活を断ち切り、「より良いもの」へのチャレンジを選んだ。
だから今の私たちがいるのです。
ですから、進歩への志向は私たちにとって「必然」です。
人はどこまでいけるのか?
我々の写真はどこまでいけるのか?
その飽くなき探究心は「上手い」などというレベルにとどまっていることを許しません。
ここにおいて写真は、「アート」のレベルに到達します。
あなただけが為し得る写真。
あなただけの領域。
その奥に分け入ることは、もはやあなただけの個人的な行為ではありません。
それを見たいと思っているのは、あなただけではありません。
あなたの跳躍は、全人類の財産です。
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