HIROMIX(ヒロミックス)に学ぶ、写真作品鑑賞の極意

HIROMIX(ヒロミックス)に学ぶ、写真作品鑑賞の極意

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ヒロミックス
© HIROMIX

1990年代にこの日本において「革命」があったことをご存知でしょうか?

フランス革命や明治維新みたいな、いわゆる革命です。

それは写真界で起こりました。

起こしたのは、当時女子高生を終えたばかりの女の子。

名をHIROMIX(ヒロミックス)といいます。

現在、「カメラ女子」や「ガーリーフォト」なる言葉もあるように、写真を撮る女子はごく一般的ですが、その、「女子が写真を撮ること」を一般的にしたのが、HIROMIXです。

HIROMIXの写真は、当時も言われたように一種のレヴォリューション(革命)であり、写真史上の画期的な出来事です。

この平和ボケな現代日本で、実際の革命が起ころうとは夢にも思いませんでしたが、実際にそれは起こりました

そんな写真における「革命」とは一体何なのか、そして、それを革命たらしめる「写真の見方」とは一体何なのか?

迫ってみたいと思います。

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目次

HIROMIXに至る流れ

HIROMIX以前(と言えばまあ結構昔ですが…)、一般的に「写真」と言えば、おじさん、というか、男性がメインユーザーでした。

昭和の頃の家族のスナップ写真も、基本的にお父さんが担当していましたね。

「ちびまる子ちゃん」に出てくる「たまちゃんのお父さん」

「ちびまる子ちゃん」に出てくる「たまちゃんのお父さん」

そもそもカメラっていう機械がなかなか難しげな代物であり、言ってみれば写真撮影は、機械いじりの延長みたいなところがありました。

そして機械いじりってのは大体において男子の趣味であり、その流れで趣味の写真撮影も、男子が難しげな顔をして取り組む、わりと理屈っぽい代物でした。

「女子的写真」とは

しかるにカメラの技術は進歩し、誰でも簡単に撮れるコンパクトカメラが普及し始めます。

それによって、それまであまり使い手ではなかった女子の手にもカメラは浸透し、女子特有の「感覚」を生かした写真が撮られ始めます。

しかし、この段階においては、まだまだ写真雑誌に掲載されたりといった「アート的な」視点で撮っていたわけではなく、単純なスナップ写真、今でいう「写メ」みたいな感覚です。

ではその「女子」的な感覚とはどんなものか?

そもそも、男子は「撮る」のは好きですが、「見る」のが好きなのは、基本的に女子のほうだと言えます。

ウチの親の場合も、写真を撮るのは父親でしたが、その写真を見て「わー」とか「へー」とか言うのはたいてい母親で、アルバムに整理するのも母親でした。

男女の脳ミソの構造の差なのかもしれませんね。

つまり、「撮りたい」から撮るのではなく、「見たい」から撮る。

それが「女子的写真」の特徴と言えるでしょう。

「女子的写真」とコンパクトカメラ

ですから、「撮る」にまつわるアレやコレやはなるべくすっ飛ばして、「見たいもの」「見せたいもの」をコレクションするためだけにシャッターを切りたいわけです。

そのためには画質やスペックよりも、「押せば写る」という簡単さが重要であり、なおかつ、いつでも持ち歩けるコンパクトさも重要です。

そんなニーズにぴったり当てはまったのが、いわゆるコンパクトカメラです。

コニカ BiG mini F

コンパクトカメラ(コニカ BiG mini F)

コンパクトカメラは、「女子らしさ」にぴったりマッチし、当時は女子高生のカバンに必ず入っていましたね。(あるいは「写ルンです」が)

HIROMIXが使っていたのも、コニカの「ビッグミニ」という、いたってフツーのコンパクトカメラです。

男子的写真

ちなみに、「男子的写真」を物語るエピソードとして、昭和の有名な写真家である木村伊兵衛の逸話を紹介しましょう。

木村伊兵衛

ある時、木村伊兵衛が中国を旅行中に、写真に撮りたいような、とてもいい場面に出くわしました。

しかしその時、あいにくカメラは持っていない。

そこで同行の人に「カメラ貸して!」と言って借り、気が済むまで撮ります。

そして撮り終わったら、あースッキリしたと言って返すのみ。

ただ単に「撮りたい」という欲求を満たすためだけに撮り、撮った写真を後で見たり作品にするわけでもない、という話。

うろ覚えなので正確ではないかもしれませんが、非常に男性らしい衝動なのでは、と、ふと思い出した次第です。余談ですが。

プライベートな「女子的写真」

さて、そんなこんなで、難しげなカメラから解放された女子達は、それまでの男子とは違った発想で写真を撮り始めます。

もちろん、長年難しく写真をやってきたおじさん連中からは、歯牙にもかけられないような写真です。

というか、そもそもそういう写真は、おじさんたちの眼中には無かったはずです。

それらの写真が、自分たちがやっている写真と同列な「アート」だなんて、夢にも思っていなかったでしょう。

それは当人である女子カメラマンたちも同じで、別に自分たちの写真が上手いか下手かなんてどうでもよかったし、評価されようとか考えたこともなかったと思います。

それは自分たちが楽しむためだけの、ごくプライベートな写真であり、世間に発表して「どうだ!」というようなパブリックな写真では全然ないのです。

それらは全然クロスするはずもない、別次元の出来事でした。

そんな折に、HIROMIXが、キヤノン主催による写真コンテスト「写真新世紀」でグランプリを受賞します

HIROMIX 写真新世紀1995

キヤノン:写真新世紀|Gallery1995 © HIROMIX

「写真新世紀」受賞と「女子的写真」のパブリック化

そんなメジャーな写真コンテストに応募するなんて発想がそもそも無かったようなごくプライベートな写真が、いきなりグランプリを受賞します。

しかしこのグランプリは、ある意味歴史の必然です。

「ガーリーフォト」は、HIROMIXらの受賞を受けて広がったというよりも、水面下においてすでに「女子カメラ」の下地は十分出来上がっており、そこに針穴をあけて、一気に噴出させる役目を担ったのがHIROMIXと言えます。

HIROMIXがやらなかったら、他の誰かがその役割を担っていたでしょう。

「女子的写真」はすでにスタンバイを終えて、舞台の袖で出番を待っていたのです。

しかし、あれだけ衝撃的に、あれだけ徹底的に「それまでの写真」というちゃぶ台をひっくり返したのは、やはりHIROMIXの面目躍如たるところです。

「女子的写真」のその後

「普段自分たちが撮っているような写真が、アートとして認められた」

「自信を持ってやっていいんだ」

「自分たちのやっている一種どーでもいいと思われていた(思っていた)ことは、実はかなりイケてることなのだ」

自分たちの写真に対する見方」がそこで180度変わりました。

それは写真界におけるかつて無いパラダイムシフトであり、最大級のレヴォリューションです。

昨日までのアヒルは、今日から白鳥です。

いや、白鳥どころか鳳凰くらいの勢いで一斉に大空に羽ばたいていきました。

それが今日の「女子カメラ」の源流です。

やっていることはこれまでと同じですが、そこには新たな「視点」が与えられ、新たな「意味」が与えられた。

それまでと同じ「それ」は、しかしながら、もはやそれまでとは違う「それ」です。

高校を出たばっかりのうら若き乙女が、小さなカメラで世の中を覆した。

それがHIROMIXという「現象」です。

HIROMIXの写真史における意義

写真史におけるHIROMIXの意義、それは音楽史におけるビートルズの意義に近いものがあります。と言ったら大げさでしょうか?

つまり、「え!?これでいいんだ!?」を提示したことです。

ビートルズの音楽

ビートルズの音楽も、最初評価は真っ二つに分かれます。

「型に則った楽曲構成」と「歌唱力」という、それまでのポップス音楽の二本柱を大胆不敵に覆して、「マジかよ!」っていうような楽曲とあまりにもラフな歌唱。

それは、「キミたち本当にそんな音楽がいいと思ってるの?本当はキミたちこっちなんじゃないの?」という、あまりにもダイレクトな問いかけです。

ビートルズ

当然それまでの楽曲に慣れ親しんだ大人たちは眉をひそめますが、ある意味「退屈」ともいえるそれまでの音楽を覆す新しい提案に、若者たちは飛びつきます。

その音楽は、「上を向いて歩こう」で有名な中村八大をして、「本物がある」と言わしめるわけですが、それは「上手さ」というこれまでの音楽におけるビジョンとは全く異質の「グルーヴ」というビジョンを採用していながらも、確かにそれはそれでひとつにまとまっている、ということです。

しかしそうは言いつつも、完璧に「ウマい」のがビートルズです。

グルーヴの奥にそれを成り立たせている「完璧なウマさ」があります。

どんなにヘンテコリンに見えるコード進行でも、その裏には意外なことに、きちんと西洋音楽の枠組みに則った確かな論理的裏付けがあります。

であるからこそ、多少音程を外しても、タイミングを外しても、それが「グルーヴ」として成立するのです。

ビートルズの衝撃は、歌を「鑑賞するもの」から「体感するもの」に変更したという点で、まさに「革命」です。

あの若者たちの異常な熱狂は、その音楽が彼ら彼女らの「体」に、じかに「感じられる」ものだったからでしょう。

ビートルズの熱狂的ファン

理屈や型を突き抜けて、「これがいいべ?」というものをスパーンと提示した気持ち良さは、まさに「ロックンロール」そのものです。

HIROMIXの場合

HIROMIXの場合もビートルズと同じく、これまで男子が理屈っぽく「あーでもない、こーでもない」とこねくり回していた写真を、スパーンと突き抜けていった写真です。

本人も「写真新世紀」受賞作の付言に「ROCK IS MY LIFE」なんて書いていますが、自分の写真は、写真界における「ロック」であるという意識があったのでしょう。

参考:写真新世紀|Gallery1995

その「これでいいじゃん」っていう写真は、「え!?これでいいの!?」っていうくらい、テクニックや型からは無縁の写真です。

それは、これまでの写真に慣れ親しんできた層からは、「なんだこれは!?」という反発をくらい、技術やテクニックとは無縁のコンパクトカメラで思い思いの写真を撮っていた層からは、「それそれ!!」と歓迎される写真。

まさにビートルズと同じ図式です。

その写真史上の意義は、これまで「技術的」であることが当たり前であった写真を、「撮りたいように撮っていいんだ」と開放した点です。

HIROMIX的写真の核心

しかし、「技術」という拠り所の無い写真は、何を拠り所としてその価値を判断すればいいのでしょうか?

ただ撮りたいように撮ったというだけで評価されたのでしょうか?

その通りです

「撮りたいように撮る」ということ

それまでの写真は、技術と型の上に則って展開されるべきもので、「撮りたいように撮る」なんて視点は、実はありそうでなかったのです。

そしてまた、「撮りたいように撮る」は、巷では当たり前すぎるほど当たり前に存在していましたが、当たり前すぎて逆にそこに価値を付与するという視点が圧倒的に欠けていました。

そこんところの価値を認めるべきではないの?と提案したのがHIROMIXであり、それを認めたのが「写真新世紀」です。

もちろん、ただ撮りたいように撮るだけで、それが評価に値する写真になるわけではありません。

実は「撮りたいように撮る」って、かなり難しいことなのです。

皆さんもおそらく、撮りたいように撮っているはずですが、それらが写メやスナップの域を出ないのはなぜでしょうか。

「撮りたいように撮る」をひとつの価値にまで高めるには、徹底的に、撮りたいように撮らなければいけません。

中途半端に撮りたいように撮っても、それはただの写メであり、ただのスナップ写真です。

何をやるにしても、徹底的にやることによって、それがパワーを持ち得るのです。

「徹底的ってなんだろう?」って考え始めた途端に、もう徹底性が曇り始めるというパラドックスをはらみながら、それでも徹底でいられるなんて、何気にそれはよほどハイエンドな所為です。

HIROMIXは多くのフォロワーを生んだそうですが、それらの写真と本家HIROMIXの違いは、その「徹底性」でしょう。

彼ら彼女らの写真が、本家HIROMIXほどのパワーを生まないとしたら、それはその徹底性において決定的な差があるからに他なりません。

HIROMIXの写真の核心

ちなみに、ビートルズの場合は、そのグルーヴの裏に「完璧なウマさ」というベースがありましたが、HIROMIXの場合はどうでしょうか?

HIROMIXの場合、その裏には何もありません

本当になにもない。

その裏も表もない一本槍な純粋さ、それがすなわち彼女の徹底性です。

その徹底性を、10代後半という人間としてもっともエネルギーの高い時期に為した。

革命とは、膨大なるエネルギーを消費します。

長年の積み重ねがどっさり載ったちゃぶ台をひっくり返すわけですから。

革命が若者から生まれるのには必然性があるのです。

その「膨大なエネルギー」を「徹底的に」発揮した「純度の高い」作品。

それがHIROMIXの写真です。

HIROMIXと自撮り

そしてHIROMIXの写真には自撮りが多いですが、これは女子特有の「見たい」「見せたい」と、思春期特有の「自分を知りたい」が、裏も表もない一本槍な純粋さによってストレートに表現された結果でしょう。

その当時、川本真琴が「苦しくてせつなくて見せたくてパンクしちゃう!」と歌っていたアレです。

なにしろ「神様は何も禁止なんかしてない」し、「大人じゃわかんない」わけだし、「届かないって言われたってこのままジャンプしたい」わけです。

そしてHIROMIXもそれに呼応するように「愛は何故苦しいの」「どんどん大人になってゆく自分がコワイ」と言っています。

そんな「思春期」特有の感性が、彼女の写真にある種の彩りを加えているのも、ひとつ見逃せない特徴です。

ちなみに、川本真琴の1/2のジャケ写を撮ったのはアラーキーですが、写真新世紀の審査員としてHIROMIXをピックアップしたのもアラーキーです。

90年代のガーリー文化を創出したのは実はアラーキーです。(笑)

HIROMIX的写真のまとめ

「革命」を起こす時、中途半端では革命になりません。

ビートルズにもHIROMIXにも言える、その作品の特徴は、この「徹底性」です。

「今までとちょっと違うね」とか、「ちょっと新しいね」ではダメです。

全然違うねっ!!」とか、「開いた口が塞がらない」レベルで、徹底的に違わないとダメなのです。

HIROMIXの写真の核心は、その「徹底性」です。

凡人の到底為しえない徹底性によって、最も高い時期のエネルギーを余すところなく視覚化した写真。

その写真はいわゆる「革命的な写真」なわけですから、旧来の鑑賞法では捉えられないのは自明の理です。

というわけで、ここからが本題の、「写真の鑑賞法」です。

HIROMIXに学ぶ「写真の見方」

さて、「HIROMIXの写真は全然わからん」「意味不明」「なんであれがいいの??」

ひじょ~によく聞く言葉です。

今回はそういった言葉に対する回答を、ここへ書きたいと思います。

「自分から写真へ」か「写真から自分へ」か

HIROMIXの写真に対して「構図がまるでなっちゃいない」とか、「ライティングがめちゃくちゃである」というのは、的はずれも甚だしいわけです。

あの写真たちはそんなこと一言も言っていません

「自分の尺度をその写真に当てはめること」と、「写真からのメッセージを受け取ること」は、まるっきり方向が逆です。

「写真を理解する」とは、虚心坦懐に「写真が発するメッセージを聞く」ということです。あくまでこちらは受け身です。

作品に敬意を払い、あくまでこちらは「写真に教えてもらう」という立場です。

それに対して、自分の持っている尺度でその作品を「講評」するのは、作品を上から見下ろして、俎上に載せるという態度です。

作品の上に立って、その作品がどういうものかを講釈するという態度は、言ってみれば「教える」という態度であって「教わる」という態度ではありません。

だから、作品から何も教えてもらえないのです。

だからその写真が「ワカラナイ」のです。

「教える」は「教わる」の正反対の言葉ですから。

作品が「ワカラナイ」理由

ある作品を見て「わからない」という言葉を発するのは、「自分の持っている尺度では解釈できない」と言っているのと同じ意味です。

「わからない」という言葉は、その作品を「解釈しようとしている」からこそ発せられる言葉です。

つまり、あくまでその作品に対して講評を試みているわけです。

そして、自分がもっているどの尺度にも当てはまらないので、「わからない」と、こう来るわけです。

自分ではそのつもりがなくても、自分ではその作品の前にひざまずいて教えを請うているつもりでも、「わからない」という言葉が出て来る以上、それは自分の尺度とその作品とのミスマッチを表しています。

ミスマッチである以上、それはどこまで行っても平行線です。見方を変えない限り

HIROMIXに学ぶ、写真の鑑賞法

じゃあどうやって見るの?

虚心坦懐に「写真が発するメッセージを聞く」って、いったいどういうこと?

となるわけですが、それはもうただ見るだけです。

試みに聞きますが、何かを目の前にして、心が動かないってことがありますか?

何かを感じ取らないってことがありますか?

駅のホームに立って、電車を待っている時に見える景色にも、教室の窓からぼんやり外を眺める景色にも、何かしらの「印象」というものがあるはずです。

そして、それらは同じ「景色」というものではありながら、その印象は明らかに違います。

説明は出来なくても「違う」ということはわかります。

同じように、ある作品とある作品の印象は、明らかに違います。

説明は出来なくても「違う」ということはわかります。

それは、それぞれの作品に「何か」を感じ取っていて、その「何か」と「何か」を比較した結果、「違う」ということがわかるのです。

比較が出来るということは、「何か」を確かに受け取っているのです。

その「何か」が写真が発するメッセージです

そしてそれは、言葉にする必要もないですし、解釈する必要もありません。

作品を見るとき、何か「良さ」を、あるいは「悪さ」を、必ず見つけなければいけないという、一種の強迫観念にも似た思いがあるかもしれませんが、それは真っ赤なウソです。

いつそんな法律ができましたか?それこそ「神様は何も禁止なんかしてない」です。

写真は、わからなくても全然問題ないのです。

言葉にならないヴァイブレーションを受け取るだけで十分です。

「言葉に出来ないから写真を撮る」なんて言い方もありますが、「言葉に出来ないから撮った写真」を見て言葉に出来ないのはある意味当たり前です。

そういう意味で、それはビートルズの音楽と同じく、「体感する写真」ということです。

そんな見方。

それは今までの見方から言えば、「見方の革命」と言えるかもしれません。

HIROMIXの写真は革命的ではありますが、その写真は鑑賞する側にも、革命を起こすことを要求するわけです。

まとめ

HIROMIXをはじめとする、ガーリーなフォトグラファーの写真が「ワカラナイ」というのは、非常によく聞く話です。

しかし、写真はわからなくてもいいのです

「わかる・わからない」だけが写真の見方ではありません。

どんな写真にも、何かしら「感じる」ものがあるはずです。

イカを見てもタコを見ても、何か感じるはずです。いわんや「作品」をや、です。

何かを「感じる」ためには、「ただ見る」だけでいいのです。

そして、ただ見るためには、「作品」に対する身構えや気負いが邪魔になります。

ですから、駅前の何でもない風景を眺めるのと同じ要領で、その作品を眺めればいいのです。

見慣れた駅前の風景にいちいち講釈垂れますか?

同じように、作品を眺めていちいち講釈を垂れる必要もないのです。

それは「ただの作品」であって、ただの駅前の風景や、ただのイカタコと一緒です。

というわけで、今回はHIROMIXの写真から「写真の見方」について考察しましたが、写真は「わからない」からと言って嘆く必要も無いし、「わからない」からと言ってけなす必要もありません

作品と自分との位置関係をいちいち明らかにする必要も無いし、作品と世界との位置関係もいちいち明らかにする必要もありません。批評家じゃあるまいし。

作品を見た、何かを感じた。それでOKじゃないですか。

作品に対する身構えを解いて、仲良くやりましょう

それが作品を理解する、一番のコツです。

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