世のセンスも才能もないカメラマンのみなさん、こんにちは。
みなさんの代表、上原です。
センス、才能、うらやましいですね。
他人の写真ギャラリーなどを眺めていて、「なんてウマい写真なんだろう」とか、「よくこんな撮り方を思いつくな」と、そのブリリアントな発想に舌をまく毎日です。
はい。自分は自他共に認めるセンスも才能もないカメラマンです。
実際、センスや才能をベースにした「すごい写真」は誰にでも撮れるものではありません。
あれは「天才」だけのなせるワザですから。
しかし、「良い写真」なら誰にでも撮ることができます。
なぜなら「良い写真」はセンスも才能も関係ないからです。
今回は「センスも才能もなくていいじゃん、良い写真を撮ろうよ」という、「良い写真のススメ」です。
目次
「センス」「才能」ってなに?
センス、才能は、「天からのギフト」です。
それは当人が努力して身につけたものではなく、最初から備わっていたものです。
本人にだってなんでそんな才能やセンスがあるのかわかりませんし、合理的な理由もありません。
カーペンターズの歌にあるとおり、
On the day that you were born
The angels got together
And decided to create a dream come true~♪
であります。
で、ありますから、センスや才能を後天的に身につけようとするのは、無駄な努力であります。
あなたはあなたに与えられたものを使ってやっていくしかありません。
不公平だと思われますか?あなたも写真の才能が欲しいですか?
でも現実がそうなのだから仕方がありません。
誰もがオリンピックで金メダルを取れるわけではありませんし、誰もが「のど自慢」で鐘を全部鳴らせるわけでもありません。
しかし安心してください。
我々凡人には凡人なりの写真の撮り方があり、それはそれで意義深く、貴重なものです。
「多様性」が世の中をうまく回すために大切だと、教育テレビでも蟻の社会を例えにやっていました。
いろんな種類の蟻がいるから、蟻の社会がうまく回るんだと。
我々の写真も同じです。
天才には天才の写真がありますが、凡人には凡人の写真があり、それぞれに深い意義があります。
写真の才能は別に人類全員持っていなくていいものです。
自分の持っているものを最大限生かして、写真を撮りましょう。
中田英寿に学ぶ
このあいだテレビで興味深い番組がありました。
サッカーの中田英寿は誰でも知っていると思いますが、彼よりもっとうまいプレーヤーが、実はいたのです。
それは中田自身も周りも、圧倒的に認めるほどでした。
しかし、その後の現実は彼の名前を知ってる人はほとんどいませんが、中田ヒデは超有名人です。
なにが2人の明暗を分けたのか。
準備の天才
中田は自分の下手くそを明確に自覚し、改善のために何をどうすればいいのかを徹底的に研究し、実践しました。(もともと彼は補欠でした!)
それと並行して、海外で活躍する日に備えて数ヶ国語をマスターしました。
ペルージャの入団会見で「イタリア語で一言」と言われ、「ハラが減ったのでそろそろ終わりにしましょう」とその場を沸かせたヒデ。
その時点ですでにイタリア語でそんなことが言えるのはもはや当たり前で、どんなジョークがイタリア人にウケるのかの徹底的な研究さえ、そこにはあったはずです。
「準備の天才」
前述のヒデよりもうまかったという「サッカーの天才」は、中田英寿のことをそう称しました。
…。
実に、実~~~に深い話です。
その後の明暗を分けたのは、サッカーそのものの才能ではなく、「準備の」才能だったのです。
これが写真にも応用可能なのは、もうお判りですね。
「一流」と「準備」の関係
さて、私を含めた凡人のみなさん。喜ぼうではありませんか。
いい写真のためには「写真の才能」は関係ないと、あの中田英寿が身を持って証明してくれました。
写真には「写真の才能」ではなく、準備が大事であると。
もちろん、フォトグラファー業界にも準備の天才はいます。
数々の有名アートディレクターから直々に指名を受ける、超一流フォトグラファーの瀧本幹也氏です。最近は映画の撮影でも有名ですね。
彼はまだ打ち合わせの段階でも、実際の見え方を見せるために、「背景」である畳を持ち込んだりします。本物の畳です。
まだ海の物とも山の物ともつかない「打ち合わせ」の段階で、実際の畳を手配し、持ち込む。もちろん手間もコストも自分持ちです。
「普通そこまでする!?」というようなことも、彼にとっては当たり前のことです。
「準備の天才」とはつまりそういうことです。
そしてこの、打ち合わせに「畳」を持ち込むようなことは、幸いなことに才能でもセンスでもなく、やろうと思えば誰にでもできることです。
(畳を持ち込むことを「思いつく」ことが、才能と言えば言えるかもしれません)
「良い写真」とは
さてそれではここで「良い写真」について確認しておきましょう。
「良い写真」とは「何を撮ったか」や「どう撮ったか」は関係ありません。
ましてや「何で(機材)」撮ったかや「誰が」撮ったかも関係ありません。
「良い写真」とはいたってシンプルに「丁寧に撮った写真」です。
画面の隅々にまで心を配り、誰も気付かないようなところにまでチェックを入れ、「もうこれ以上どうしようもない」と言うところまで考え抜いた写真です。
それは「面白い写真」ではないかもしれませんし「すごい写真」でもないかもしれません。
しかし、考えうるあらゆる要素を検討し尽くし、考えうるベストな対応で全てに当たった写真は、どんなに平凡に見えたとしても、「良い写真」です。
アップルの例
アップル製品が他とは違ったユニークなポジションを獲得し、他よりもプレミアムな価格でも売れるのはご存知の通りです。
スティーブ・ジョブズは天才と言われますが、そのクールな製品は、イノベーションというよりもむしろ、細部への徹底的なこだわりという「平凡の積み重ね」によって成り立っています。
新製品の開発中、基板の裏の「配線」が美しくないと部下を叱責したジョブズ。
こんなところ一体誰が見るんだ!?との部下の問いに、「俺が見る」。
細部への配慮と「良い写真」
つまりそういうことです。
カメラマンは、誰も気付かなかったとしても、「自分だけは」知っていなくてはいけません。
どういう理由でここがそうなっているのかを。
なぜそっちではなくこっちを選択したのかを。
誰も気付かないような細部にも、徹底的に配慮するのです。
というか、もはや他人が気付くか気付かないかは関係ないのです。
これはアティチュード(態度)の問題です。
誰が気付くか気付かないかではなく、そういう態度で事に臨んでいるという、本人のアティチュードの問題です。
そしてそういう態度で事に臨めば、「良い写真」はおのずと完成します。
「誰も気付かないような細部にまで目を留めて、心を配る」
これは「才能」でも「ヒラメキ」でもありません。
単純に「丁寧」かどうかだけです。
丁寧に撮る写真
では、写真において「丁寧に撮る」とはどういうことでしょうか?
ザックリと確認してみましょう。
撮影中
まず最初に、状況をよく観察することです。
何がどうなっているのか、どこがどうなのか、何が何なのか?
つまり「気付く」ということです。
- 「あれ、髪の毛がちょっと目にかかってるな」
- 「ちょっと服にしわがよってるな」
- 「少し画面の右下がさびしいな」
- 「ちょっとハイライトが飛びすぎてるな」
- 「この光量だと絞りがちょっと足りないな」
- 「差し色にこのアクセサリーを足したほうがいいな」
- 「要素が接近しすぎているな」
- 「背景との輝度差が大きいな」
etc.etc.…。
気付くべきことには、正直キリがありません。
しかし、その時にできる範囲のことをやり尽くすのです。
逆にそれをやらずに何をやるのですか?
という話です。
カメラマンの仕事はシャッターを切ることではありませんね。
シャッターだけなら猫でも切れます。ニャア~ぽちっ☆
そうではなく、シャッターに至る全てを整えることです。
シャッターに至る全てを整える。丁寧に、細大漏らさず。
それが「写真を撮る」ということです。
撮影後
そして、撮った後は、出来上がった写真をまた「観察」し、そしてまた「気付く」ことです。
「あーここを見落としていた!」
「あーなんでここ、ああしなかったんだろう!」
ここでもまたいろんな気付きを得ることが出来ます。
そして次回の撮影に生かすのです。
そんなサイクルによって、どんどん写真は「良く」なっていきます。
細かい気付きと改善を繰り返して、どんどん撮影の精度は上がっていきます。
そしてこの、「丁寧に」写真を撮ることは、センスは関係ないし才能も関係ありません。
つまり、「良い写真」は誰にでも撮れるのです。
「丁寧」は誰にでもできる
さて、「良い写真」のためには、「準備」と「丁寧さ」ですね。
そして、「丁寧」を心がけていれば、「準備」もおのずから整います。
そして、「丁寧」を心がけることは、文字通り単なる「心がけ」です。
老若男女、人種国籍問いません。
使用機材も、撮影者の能力も、撮影者の好みも性格も、もちろんセンスや才能も無関係です。
ただ、やるかやらないか だけです。
「ヒラメキ」と「丁寧さ」
では、天才が丁寧に撮ったら鬼に金棒ではないかと思われるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。
アラーキーがベッドの端のシミを気にしていたら彼の写真が成立すると思いますか?
ヒラメキと丁寧さは必ずしも両立しないのです。
細かい事に気を配ることによって、逆にヒラメキが殺されてしまうこともあります。
梅佳代が背景の電線に気を取られていたら、あんなシャッターチャンスはモノにできません。

©梅佳代
ですからみなさん、細かい心配りは、我々凡人のほうがむしろ得意、なのです。ヤッタネ!
しかし逆に言うと、良い写真が撮れないのを、才能のせいにしてはいけません。
良い写真が撮れないのは、才能がないからではなく、配慮が足りないのです。
まとめ
さて、以上見てきましたように、我々は才能がないことを全く嘆く必要はありません。
我々には「丁寧に撮る」という強力な武器があります。
「丁寧に」撮ることによって、「良い写真」は誰にでも撮れるのです。
そして「丁寧」をとことん積み重ねることによって、アップルのように、他を圧倒するようなすごい写真に到達することも可能です。
そうです、天は不公平ではありませんでした。
誰にでも「すごい写真」に到達可能な道を与えてくれていたのです。
そう、あとは「やるかやらないか」だけです。
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