今回は「写真の見方」について考えてみましょう。
特に初心者の悩みどころとして、「写真の見方がわからない」ということがあると思います。
果たしてその写真は、良いのか悪いのか。
あるいは、いわゆる「名作」と呼ばれる写真を見てもピンとこない。
もう何をどう見たらいいか、皆目見当もつかない。
そんな状態の方も多いでしょう。
今回は写真の見方を、
- 技術的観点(客観的観点)
- 内容的観点(主観的観点)
の、2点から考察してみたいと思います。
写真の見方がわかる、自分なりにその写真について何か言える、ということは、写真を理解するための第一歩です。
まずはこの記事で、そのためのとっかかりをつかんでみてください。
目次
写真の見方の2つの観点
まずは、写真の見方の2種類の観点、
- 技術的観点(客観的観点)
- 内容的観点(主観的観点)
が、それぞれどのようなものかを見ていきましょう。
技術的観点(客観的観点)
技術的観点は、「客観的観点」とも言えるように、誰が見ても間違いなくそう言える、という部分について見ていく見方です。
最近、写真家のソール・ライターについて書いたので、その流れで彼の写真を題材にしてみましょう。
例えば上記の写真をポンっと与えられて、誰がみても間違いなくそう言えるという点はなんでしょうか?
1.まず最も目を引くのは「赤」ですね。
全体的にモノトーンの中に鮮やかな「赤」。
→色のコントラストを効果的に生かした写真だ、と、まず言えます。
2.そして、上下の三角形の部分が相似形を成して画面の上下に均等に配置されています。
→均等性によって写真にバランスの良さが生じています。
3.さらに、それに平行して、画面の上から順に、黒・白・(足跡の)グレー・白・グレーと、帯状のラインが見て取れます。
→それによって画面に秩序と心地よいリズムが生まれています。
4.そして、そのラインは左下から右上に向かっています。(視線の動きは普通左から右であり、写真内の人物の進行方向からいっても左から右)
→それによって「右肩上がり」の上向きの印象、プラスの印象を受けます。
5.「赤」の位置は、ほとんど画面から出ていきそうなくらい端っこ。
→安定的な画面構成の中にポイントとなる点を不安定な位置に置くことによって、凡庸さを避けています。
5点ピックアップしました。
この太字で示した、
- 赤
- 三角形
- ライン
- 左下から右上
- 端っこ
これらは、誰が見てもそうと言えるものですね。
赤は誰が見ても赤だし、三角は誰が見ても三角です。
これら誰が見ても間違いなくそうである要素と、それによって生み出される効果をワンセットにして写真を見るのが「技術的観点」で見る、ということです。
技術的観点の着眼点
こんなのパッと見て思いつかない、と思われるかもしれませんが、目の付け所はほとんど決まっています。
それは画面内の要素について、
- 位置
- 形
- 色(モノクロの場合は輝度)
を見ることです。
これらは、「個人の印象」といった恣意的な要素に左右されない、誰が見ても間違いなく同じに見える要素です。
赤は誰が見ても赤だし、三角は誰が見ても三角です。
そして、これらの点についてそれぞれ、「似ている」か「違っている」かを見ます。
似ていれば「安定」、違っていれば「不安定」です。
上記の例でいうと、
- モノトーンと赤の対比は「色」についての話です。そしてその色は「違って」います。
- 上下の三角形については「形」と「位置」です。そして、その形と位置は「似て」います。
- 平行の帯状のラインについては「形」と「色」です。そして、その形と色は「似て」います。
- そのラインの向きについては「形(角度)」です。そしてその形は、画面の矩形に対して「違って」います。(画面の縁は水平と垂直。画面内のラインは斜め)
- 赤の「位置」は端っこです。そしてその位置は、安定的な位置とは「違って」います。
表現とは「安定」と「不安定」の綱引き
表現というものは全て、この「安定」と「不安定」の綱引きの上に成り立っています。
「安定」だけだと、「退屈・つまらない」だし、「不安定」だけだと「混沌・まとまりがない」です。
安定と不安定のバランスをうまく取ることにより、安心して見られ、なおかつ面白味のある画面を構成することができます。
この写真ならば、均等な直線のラインとモノトーンという、ほとんど幾何学的とも言えるカッチリとした画面の中に、ほとんど出て行きそうなくらい隅っこに強烈な赤を配置することによって、安定と不安定が綱引きをしています。
この赤が、例えばもっと彩度の低い色で、もっと安定的な三分割や真ん中の位置にあったらどうでしょう?
安定度高すぎて、今より面白味に欠ける写真になったかもしれません。
というように、誰が見ても同じように見て取れる要素から写真を云々する見方を、「技術的観点」で見る、と言いいます。
内容的観点(主観的観点)
次に内容的観点です。
例えば、写真を文章に例えると、「文法」の観点から云々するのが、先ほどの「技術的観点」です。
そして、書いてある「内容」から云々するのが、「内容的観点」です。
「晴れた空、そよぐ風。」
という文があったとします。
これに対して、句読点の位置が均等でバランスがいいね、とかいう話が「技術的観点」で、まるでハワイ航路のような気持ち良さだね、とかいう話が「内容的観点」です。
そしてこの「内容」については、「確実にこう」と言えない分、主観的要素が多分に入る、という特徴があります。
見方が「人によってまちまち」ということですね。
では、先ほどの写真を「内容的観点」から見てみましょう。
雪道をどこかへ行こうとする人。
そして、それを上から眺めている人。
被写体の顔は見えません。衣装も黒で特徴がありません。
それは「誰」とは言えません。具体性を欠いた「何か」です。
そして、そのストライドからは「速度」を感じます。
そして、写真の黒い面に舞う雪。ランダムな足跡。
一見静かで均整の取れた画面には「動き」があり、そして真っ赤な「パッション」が、いま、速度をもって画面からはみだそうとしています。
縦位置の画面が、より狭さを強調し、その狭さから今、はみ出そうとする赤い点。
その出口は、画面右上です。
左から右への流れは、それまでの時間を感じさせ、下から上への流れは未来を感じさせます。
つまりこの写真は「終わる…」という写真ではなく、「来る」という写真なのです。
未だ来たらず(=未来)は、これから来るということです。
それは「これからやってくる何か」です。
この写真を一言で言うと「来る」です。
「行く」でも「帰る」でも「途中」でも「終わる」でもなく、「来る」です。
来る、という「予感」です。
この状況を俯瞰で見下ろす撮影者のクールな視線が、その印象を「実感」ではなく「予感」に留めています。
そして、あまりにも端っこすぎる不安定な位置にある赤い点は、ほとんど「ドキドキ」です。
そのドキドキはつまり、「予感」のドキドキとリンクします。
静謐で端正な画面から、内に秘めた情熱を、静かに、それでいて強く匂わせているのが、この写真です。
なんだか普通っぽい、ただの点景にしか見えない写真はしかし、ギリギリの激しさを内に秘めているのです。
表面上は取り澄ましているけれど、テーブルの下でハンカチを握りしめている、芥川龍之介の『手巾』のような作品です。
それはつまり、武士道にも通じる美意識です。
ソール・ライターと日本的精神との類似性については、以前指摘した通りですが、この写真においてもやはり、その特徴をうかがい知ることができます。
というふうに見るのが、「内容的観点」です。
まあこれは、ひとつの見方にすぎませんが。
写真は文字ではありませんので、読み取る内容については、人によって千差万別です。
しかし、「内容的観点」が、文字通りそこから読み取れる「内容」についての見方だということは、ご理解いただけたかと思います。
内容的観点の着眼点
内容的観点の着眼点は、技術的観点の場合と違って 決まっていません。
どこに目をつけるか、どこをどう解釈するかは、その人次第であり、視点と解釈のおもしろさがそのまま、その写真を見ることのおもしろさです。
この、「決まっていない」点が、初心者の方が途方に暮れる点でもあります。
これは、小学校の時の読書感想文にも似ています。
読んだ。うん、まあ面白いとも面白くないともなんともわからん。
感想?なんにも思いつかん。
結果、思ってもいないありきたりなことを書いてお茶を濁す。
「彼みたいなヒーローになりたいと思った。まる。」なんて。
全然そんなこと思ってないけど。
それが少年時代の筆者です。(笑)
読書感想文が苦手な人は、内容的観点で写真を見るのも苦手なはずです。
写真を見ても、何も感じない。
そう思っているのではないでしょうか。
一生懸命捉えようとするのだけれど、まるで内容が入ってこない。
それはなぜかというと、写真と一体化できていない からです。
その写真が「他人事」だからです。
「その写真のことなんかどうでもいい」というのが、実は本音ではないでしょうか。
読書感想文も、やらなきゃいけないからやっただけで、やらなくていいならやらなかったハズです。
逆に、自分がどうしようもなく感動した作品、心奪われた作品については、話さずにはおれません。
聞きたくないと言われても、どうしようもなく話したくなって溢れてくるのです。
例えば「君の名は」を観た。
ヤバイ、超感動した。誰彼かまわず話しまくる。それが伝播して超絶ヒット、ということにもなります。
それが「自分事」ならば、むしろ抑えても溢れてくるのです。
だから。
写真を見るときは、それを「自分が撮った写真」として見ましょう。
自分が撮った写真ならば、その写真のすみずみまでわかるハズです。
自分よりレベルの低い作品ならば、「バカ、なんでこんなことしてんだよ!」と自分事のようにくやしくなり、自分よりレベルの高い作品なら、その発想や視点に驚愕する。
読書感想文が苦手だった少年が、人の写真についてアレコレ言えるようになったのは、自分で写真を撮るようになったからです。
自分で写真を撮るようになって、人の写真も自分事として捉えることができるようになったからです。
写真において「撮る」と「見る」は表裏一体です。
撮れれば見れるし、見れれば撮れます。
そう、あなたが見ているその写真は、あなたが撮った写真です。
そのポジションに立った時、どういう気持ちがどういう風に動きますか?
「見る」とは、その写真と一体化することです。
そして、一体化とは「愛」です。
愛があるからこそ、気に食わないところは徹底的に気に食わないし、愛があるからこそ、好きなところは徹底的に好き。
愛の反対は「無関心」だと、マザー・テレサも言っていましたね。
「無関心」だと好きにも嫌いにもなれません。つまり、何の感想も思い浮かびません。
そして、気持ちが浮かび上がってきたならば、上手に言わなくても、うまくまとめなくてもいいです。
むしろ言葉にしなくてもいいです。
ここは小学校でもないし、読書感想文でもありません。
その気持ち、その感触。
それがあなたにだけ見えたなら、それで十分でしょう。
写真は「客観」と「主観」の2面から見る
この内容的観点は、主観的観点とも言えます。
見る人によっていろんな読み方ができるからです。
そして、最初の「技術的観点(客観的観点)」と、この「内容的観点(主観的観点)」の両方を組み合わせることによって、多面的に写真を見ることができます。
客観的だけだと味気ないし、主観的だけだと説得力に欠ける。
2つ揃って、はじめてバランスの取れた見方が可能になるという次第です。
写真を見る具体的な手順
さて、写真の見方における、2つの観点を説明しましたが、それを用いてどのような手順で写真を見ていくのかを解説しましょう。
まず、誰が見てもわかる「技術的観点」で見る
- 写真内の「要素」の類似性、非類似性を検討します。
- そして、それらが呼ぶ「安定的要素」「不安定的要素」をピックアップします。
- それらが写真上で、どのような綱引きを演じているのかを見ます。
- 最終的な、その写真に対する判断を下します。
次に、技術的観点で見た内容を元に「内容的観点」で見る
- その写真を「自分が撮った」と仮定してみる。
- 技術的観点から読み取った効果を、自分が撮る場合と比較してみる。想像以上の効果か、なんでこうするのかと思うか。
- 賞賛にしろ貶すにしろ、作品に対して「愛」がなければむずかしい。「無関心」からは何も生まれない。
- 言葉にできなくても、その写真に対して何らかの「思い」が発生したならば成功。
最後に、「撮る」に生かす
- 言葉に出来なかった「思い」を、写真にしてみよう。
写真の「内容」と「表現」
さて、写真って何のために「撮る」のかといえば、その「内容」のためですね。
内容を表現するのが写真です。
「技術的要素」は、内容を表現するための「手段」であって、大事なのは「内容」のほうです。
同じく、写真を「見る」場合も、技術的観点は内容を把握するための「とっかかり」であって、大事なのはあくまで「内容」です。
撮る場合も、見る場合も、「内容」こそが写真の核心です。
「写真がうまく撮れない」「写真の見方がわからない」というのはつまり、「内容」を知らない、ということです。
表現したいものがわからない、表現されているものがわからない、ということです。
写真は内容がなければ何も始まりません。
内容不在のまま、技術的要素、テクニックだけを云々しても、なんにも撮れていないし、なんにも見えていません。
まず「見る」ことから
ですから、まずは「見る」ことから始めてみましょう。
そして、その写真の「内容」を読み取ってみましょう。
「内容」こそが、写真そのものです。
- 写真を見るとは、その「内容」を見ること
- 写真を撮るとは、その「内容」を撮ること
ネット上にはたくさんの写真があふれています。
見ることは、いつでも簡単にできます。
そして、「見えた」ものは「撮れる」ものです。
写真が「見える」ことは、撮る場合にも有効です。
まとめ
今回は写真の見方についてお話しました。
最終的に、写真は「内容」です。
ですから、写真を「見る」とは、その「内容」を把握することであり、写真を「撮る」とは、その「内容」を写しこむことです。
ちなみに、この「内容」が撮れるか撮れないかは、写真の経験年数は関係ありません。
何十年やっているベテランでも、内容がなく、テクニックだけで撮っている人もいるでしょうし、テクニックがなくても、内容が溢れる写真を撮る初心者もいるでしょう。
そして「内容」は、「思い」あるいは「愛」と言い換えることができます。
人間の子どもだって「愛」があるから生まれるわけです。
作者の子どもである作品も、「思い」や「愛」から生まれます。
単純です。
その単純に立ち返れば、写真は見ることも、撮ることも簡単です。
写真の見方。
本当は説明するまでもないことかもしれません。
あなたが写真を始めたのは、撮りたい「思い」があるからですね。
あなたに撮りたい「思い」があるなら、作者の「思い」も、きっと見えるはずです。
その「思いを見る」ことが、すなわち「写真を見る」ということです。