突然ですが、自分の写真は好きですか?
「上手いか下手か」ではなく、「好きか嫌いか」です。
このことって、意外と気にされないんじゃないでしょうか。
「上手いか下手か」
「いいね!が付くかどうか」
「褒められるかどうか」
などは非常に気にすると思いますが、自分で自分の写真が「好きか嫌いか」は、あまり考えない場合が多いのではないでしょうか。
そもそも、「自分の撮ったもの」を客観的に見るのが難しい、ということはあります。
それから、大して上手くもない、評価されてもいない写真に対して、「好き」というのが、なんだかバツの悪い気持ちがする、ということもあるかもしれません。
でも自分の写真が「好き」かどうかは、非常に大きな要素です。
今回は偉大なる「好き」の力を写真に応用する方法について。
目次
写真と「好きのパワー」の関係
最初に言ってしまうと、いい写真、評価をされている写真というのは、それを撮った人間は、例外なく自分で自分の写真が好きなハズです。
「あんまり好きじゃないんだよね~」なんて言う人は、ウソをついているか、その写真は本当に大したことが無いかのどちらかです。
「好き」の力は偉大です。
「好き」だからこそ、相手が待ち合わせの時間に遅れても、何時間でも待てるし、「好き」だからこそ、ご飯を食べないでやりつづけても平気です。
そんな「好き」ですが、写真撮影の場合、それは「いい写真が撮れたから」好き、というよりも、「好きだからいい写真が撮れた」言えるでしょう。
なぜなら撮るのは自分だからです。
撮影時の「選択」は、全て自分にゆだねられています。
ですから、そもそも「好き」を選択し、それを撮ったからこそ、その写真が好きなわけです。
それはもちろん、単純に好きな被写体を撮った、というだけの話ではなく、構図やら光の状態やらを含め、撮った写真に何か「好き」な要素があったということです。
理由のない「好き」
考えてみたら、「好き」や「嫌い」は不思議です。
そこに理由が見出せないからです。
「好き」の理由、「嫌い」の理由。
もちろん、何とでもこじつけることは出来ます。
しかし突き詰めると、惑星の運行と同じように、「ただそうである」としか言いようのないものです。
理由はわかりません。
ですから、「嫌い」をこっちの意思で「好き」に変更することは出来ませんし、「好き」をこっちの意思で「嫌い」に変更することもできません。
「あの人のこと最初は嫌いだったけど、だんだん好きになった」なんていうのはよく聞く話ですが、それも好きに「なった」であり、「した」ではありません。
「嫌いだったあの人のことを、好きに『変更』した」
なんて話は聞いたことがありません。
「好き」や「嫌い」は、「なったりならなかったり」であり、「したりしなかったり」ではないのです。
こっちの意思ではどうにもならないものです。
「好き」のパワー
しかし。
「好き」はものすごい「パワー」です。
それは着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編むほどのパワーを生み、逢いたい一心で自宅に放火する力さえ生みます。
その発生の原理はわかりません。
わかりませんがしかし、それが大きなパワーであることは間違いありません。
この謎めいたパワーを、謎のままにしておくのではなく、写真に応用してやろうというのが、今回の趣旨です。
写真の満足は「出来不出来」よりも「好きか嫌いか」
写真をわが子に例えるなら、わが子が好きかどうかです。
愛情をたっぷり受けて育った子とそうでない子のその後の行き方については、ここでは云々しませんが、、
写真はどうですか?
撮った人間の「好き」をたっぷりと受け取った写真と、そうでない写真は?
それはその子(写真)の出来が良いとか良くないとか、そういう話ではありません。
あるいは出来を良くするために「好きになる」、という話でもありません。
「好き嫌い」と「出来不出来」の関係については、あるかもしれませんし、ないかもしれませんが、ここでは問題にしません。
なぜなら写真の満足にとって、出来不出来はあんまり関係ないからです。
出来が良いからといって好きとは限らないし、出来が悪いからといって嫌いとも限りません。
わが子の出来の良し悪しと、その子と過ごした時間の愛おしさは無関係でしょう。
それらはまた別次元の話です。
「好き」を撮影に生かす方法
それでは、そんな「好き」を、撮影に生かす方法を見ていきましょう。
「写真」というものの偉大な特徴
まず、写真の偉大な点。
それは、「誰にでも撮れる」ということです。
ピアノは誰にでも弾けません。絵は誰にでも描けません。
ある程度出来るようになるには、ある程度の修練が必要です。
しかし、写真に修練は必要ありません。
ファインダーを覗いて(あるいは液晶画面を見て)、シャッターを切るだけです。
基本的に「撮りたい」と思ったら、カメラさえあれば、誰でも、いつでも、どこでも撮ることができます。
写真撮影はテクニックではなく「選択」
写真にはテクニックがある、と思われていますね。
プロのように、たくさんの機材を使いこなしながら撮るような写真なら、そうかもしれません。
しかし、シャッターを押すだけのソレに、なんのテクニックが入り込む余地がありましょうか?
ザックリ言って写真の内容を決める要素は、
- どの位置から
- どのレンズ(焦点距離)で
- どのタイミングで
の、3つのだけです。
これはもうほとんど「テクニック」と呼ぶほどのものではありません。
単なる「選択肢」です。
「どこ」から「どれ」で「いつ」。
これだけです。
それはお昼ご飯を食べるのに、そば屋にするかラーメン屋にするか、そしてメニューは何にするかトッピングは何にするかの「選択」と大して違いがありません。
少なくとも我々が普段撮っているスナップ写真において「写真を撮る」とは、ほとんど「テクニック」というよりも「選択」です。
しかもたった3つの。(露出や構図といった細かい点は割愛してますが)
あと必要なのは、それを選ぶ「根拠」だけです。
写真撮影の「選択」の根拠
物事の選択には、いろいろな根拠があるでしょう。
値段が高い・安い、条件が良い・悪い、やるのが簡単・難しい。
しかし、「好き」のパワーを利用するなら、言うまでもなくそれは、「好き」かどうかです。
選択の基準を自分の「好き」にするのです。
好きなものを、「スキ」と思える位置から、愛するレンズで、スキに触れた瞬間にシャッターを押す。
やることは、好きかどうかを自分に聞くだけです。
教科書や先生があなたの「好き」を知っているはずがありません。
教科書や先生に聞いてもしょうがないでしょう。
「好き」を知っているのはあなただけです。
この時のコツは、「あっ」と思ったらパッと撮ってしまうのではなく、いちいち立ち止まって、この3つの要素それぞれに対して、好きかどうかを聞いてみることです。
- 本当にそのカメラポジションが、一番好きな絵になるか?
- 本当にそのレンズ(焦点距離)が、一番好きな絵になるか?
- 本当にそのシャッタータイミングが、一番好きな絵になるか?
「好きなものを撮った」ハズなのに、その写真があんまり好きになれないとしたら、これらの要素が足りてないのかもしれません。
いちいち要素に分解することによって、好きのパワーを画面の隅々にまで行き渡らせることができます。
昼ごはんに例えると、食べたいメニューを、食べたいトッピングで、食べたいタイミングで食べることにより、より満足度が上がるのと一緒です。
もちろんその要素は、露出や構図などといった、写真のさらに細かい部分にまで行き渡らせると、なお良いでしょう。
それによって「好き」を、「もっと好き」にすることができます。
「好き」の要素が多ければ多いほど、そして大きければ大きいほど、そのパワーはより、写真に満ちあふれるでしょう。
「好き」をコントロールするためのテクニック
さて、自分の「好き」がハッキリしているなら、これらの方法は簡単でしょう。
難しいのは、自分の「好き」がよくわからない場合です。
その場合は以下の方法を試してみましょう。
好きを「する」ためのテクニック
先ほど、好きは「なる」ものであって、「する」ものではない、という話をしました。
好きに「なる」のであって、こっちの意思で「する」ことは出来ないと。
しかし実は、好きを「する」ことができます。
ここからがテクニックと言えばテクニックです。
それは正確に言えば、好きを「する」ではなく、好きに「なる」をある物事において「適用する」、ということです。
それによって結果的に、ある物事を「好きになる」ことができます。
それは、その物事を見る「視点」が、ある一定の視点であったがゆえに、別に好きでも何でもなかったものを、その視点をズラすことによって「好き」になる、ということです。
意図的に、「好きではない」視点を、「好きである」視点にズラすのです。
なぜそのようなことが可能か。
まず、ある一つの物事に対して「好き」と思う人がいたり、そうは思わない人がいたり、いろんな種類の人がいますね。
それは、自分はそうは思わなくても、「好き」と思う人がいる以上、その人の視点に立てば、自分もそれを「好き」と思える、という構造を意味します。
だから視点をズラすことによって、自分もその物事を「好き」になれるわけです。
(ちなみにこれは、お互いの立場を尊重して認め合う、世界平和のためのテクニックでもありますね)
たとえば元々はアンリ・カルティエ=ブレッソンのような厳格な構図の写真が好きな人であっても、いわゆる「ゆるふわ」な写真の「好き」を理解することもできますし、その理解を元にそんな写真を撮ることもできるでしょう。
また、元々「ゆるふわ」な写真が好きな人であっても、森山大道みたいな、アレブレボケな写真の「好き」を理解することもできますし、その理解を元にまた、そんな写真を撮ることもできます。
それは、自分の意見を変えるというよりも、その人がそれを「好き」である理由を「理解できる」ということに近いでしょう。
しかし結果は同じことです。
「好き」が見えさえすれば、後はそれに従って撮ることができます。
写真を撮る際、自分のハッキリとした「好き」があれば、それはそれで大変結構ですが、どおにも自分の「好き」が見当たらない、あるいは自分の「好き」がわからない場合、「好き」を「選択する」という手段があるのです。
写真に込める「好き」は、必ずしも自分のオリジナルじゃなくてもいいのです。
これはどちらかと言えば、プロカメラマンのような人がクライアントの「好き」を写真に反映させるためのテクニック、と言えるかもしれません。
しかし、何はともあれ「好き」のパワーを込めることによって、写真にパワーが生まれます。
そのためには、このようなテクニックを駆使することも可能、というわけです。
まさに前回も出てきた「ブラウン運動」のように不規則かつ無意味に飛び交っている「好き」の粒子は、自分が今乗っかっている粒子にこだわることなく、自分にとって都合のいい粒子にホイホイと乗り換えてしまってOK、というわけです。
ままならない「好き」さえもうまくコントロールして、写真に生かすという発想は、大してテクニックらしいテクニックの存在しない写真撮影において、数少ないテクニックのひとつ、と言えるかもしれません。
まとめ
今回は、「写真は好きに撮ったらいい」と言われて逆に困る、そんな人への提案の一つ、とも言えます。
「結局は好きに撮るのが一番」ってのは、非常によく言われる言葉であり、確かにその通りかもしれません。
しかし、それを言われて困る人は、結構いると思っています。
あるいは、自分の「好き」を前面に出すことをためらう人もいます。
自分の「好き」よりも、教科書や先生の指示を優先してしまう人です。
自分の「好き」なんて大したことはない、それよりも、偉い先生の言っていることのほうが確実だ。
それは半分当たっていますが、半分ハズレです。
「好き」が理屈を超える瞬間なんて、月曜夜9時のフジテレビにチャンネルを合わせるまでもなく、枚挙にいとまがありません。
「好き」に遠慮も会釈もいりません。
それは、そもそもあなたの意思とは無関係です。
大事なのは、それが「パワー」を持っている、ということです。
そのパワーを無駄にすることなく、写真にも使ったらいいではないですか。
そういう話です。
まずそもそも、自分の写真が好きかどうかを考えてみたことがなければ、まずは考えてみるといいでしょう。
そして、「好き」ということのパワーについて、改めて考えてみるといいでしょう。
「好き」は写真にとって非常に大きな要素となりますから、「好き」を考えることは、直接写真のクオリティにつながります。
Don’t take money, don’t take fame
Don’t need no credit card to ride this train
それは、お金よりも名声よりも、もっと素敵なものを与えてくれると言っている人もいます。