「ポートレート」というのは、写真撮影において、もっともメジャーなジャンルのひとつです。
人をいかにカッコよく、キレイに撮るかは、やっぱり人々の興味を最も引くところです。
今回はそんなポートレートの意味を、肖像画の時代にまでさかのぼって考察してみましょう。
人間の美しさへの欲求と、それに応える技術者とのせめぎ合いによって発達してきたポートレートは、現代にどのような流れでつながっているのか。
古きを知ることによって、逆に新しい視点を手に入れることができます。
歴史を振り返って、改めて「ポートレートとは何か」について考えてみましょう。
目次
肖像画の時代
自分の姿かたちを、なるべく美しく残しておきたいということは、人間だれしも思うものです。
そんな欲求を叶えるべく、写真が無い時代は絵師が活躍しました。
当然、絵師を雇えるような身分の人間だけの特権です。
そして、絵師の側も、気に入ってもらわないことには仕事が続かないので、かなり美化して描くことになります。
注文を受けて描く肖像画に不細工な絵がないのは、当然の成り行きであります。
逆に、本人の特徴をとらえつつ、いかに美しく描くかが、絵師の腕の見せ所です。
このマリー・アントワネットの肖像も、何パターンか残っていますが、描かれるたびにころころと別人のように描かれています。
その時々の事情と、絵師の表現のしかたによって、いかに恣意的に描かれているかということでしょう。
大事なのは「リアル」であることより、注文主が満足することと、それによって仕事が続くことでした。
不細工な肖像を残したいと思う人は、まずいないでしょう。
しかし、最終的には「絵」でありますから、どうとでも描くことができます。
絵の時代の肖像は、対象をいかに美化して描くか、ということが重要なことでした。
写真の時代
さて、時代は下って、写真の時代がやってきます。
これによって、比較的だれにでも、自らの肖像を残せる時代がやってきました。
しかし問題は、写真は絵のように美化することができず、リアルな当人そのままの姿であったことです。
自分が思っていたほど自分はカッコよくない、キレイでない、とがっかりする人も多かったようです。
しかしそこは、クライアントあっての商売です。
お客さんに喜んでもらわなければ、商売は繁盛しません。
そこで、光の当て方、ポーズのとり方などによって、「いかに美しく見せるか」が研究されました。
こちらは、大正から昭和初期にかけて活躍した、森川愛三という写真師による写真です。
宮家や上流階級に多くの顧客を持つ、当時は売れっ子のカメラマンでした。
さて、真っ先に気付くこと、それは顔が真っ黒です。
今の感覚からしたら、女性の顔はむしろ、真っ白に飛ばすものですが、真逆です。
これは、【名作から学ぶ】モノクロ写真の魅力と撮り方のコツでも紹介しましたが、隠すことによって、より深みを与えているのです。
バーンと見せてしまえばそれで終わりですが、あえて見せないことによって、何か意味深な、ミステリアスな雰囲気を醸し出しています。
秘すれば花、という日本的な美学が、そこには息づいているようです。
また、その人の顔が思ったほどカッコよくない、キレイじゃないとしても、シャドーに入れてしまえば、ぶっちゃけよくわからなくなります。(この方は美人ですが)
そしてまた、よくわからないからこそ、逆によ~く顔を見てしまう、ということもあります。
見えないからこそ見たくなる、そうやって見る人を引き込むことができるわけですね。
そして、ポージングについては、よくみるとかなり極端な横向きです。
人間の体は、横の方が細いので、そうやってスリムに見せることができます。
被写体をいかに魅力的に見せるかを良く考慮し、採光やポージングをよくコントロールして撮影していることがうかがえます。
そして、より美しく見せるための探求は、ネガに直接手を加える「修整」にまで及びます。
鉛筆で描き足したり、修整刀で削ったりして、実際の本人を描き替えてしまうわけです。
そのあたりの発想は、絵画の時代と同じですね。
リアルであることよりも「美化」のほうが重要なわけです。
お見合いの写真がかなり修整されていて、当人に会ってガッカリ、というのは良く聞く話でしょう。
今でこそデジタル技術の発達で、修整は誰にでも簡単に行えますが、昔はルーペでネガを覗き込みながらの細かい作業で、かなりの技術が要求されました。
まさに職人技です。
昔は、この「修整」の技術の良し悪しで、店の評判が決まったと言われるほどです。
逆に言えばそれほど、お客さんの「よりキレイにして欲しい」という欲求は大きかったのでしょう。
現代のポートレート
さて、現在では写真は誰もが撮る当たり前の行為です。
もはや、専門職だけの特殊な技能ではありません。
自分や家族の写真を残すにしても、わざわざ写真屋さんで撮る必要もなくなりました。
手持ちのスマホでも簡単に撮れてしまいます。
そして、デジタル技術の発達により、別人のようにその人を変えてしまうことも簡単です。
もはやポートレートを取り囲む状況は混沌としています。
人を、美しくカッコよく撮るのがポートレートではありますが、スマホでのチョットしたスナップから、フォトショップを使ったバリバリに編集した写真まで、もはや何でもアリの状況です。
あらためてポートレートとは
さて、ポートレートの過去から現在までの流れを見てきましたが、ここで改めて「ポートレート」なるものを考えてみましょう。
そもそもそれは、自らの肖像を美しく残したという、撮られる側の欲求としてスタートしました。
そして、それに応える人たちも、特殊な技能をもった職人たちでした。
そんな時代のポートレートは、「顧客満足」と密接に結びついていました。
お客さんを満足させるために、照明やポーズに気を使い、ネガに直接手を加えてまで、その願望を実現しようとしました。
それは、撮り手の希望ではなく、被写体の希望です。
つまり、ポートレートというものは、被写体がうれしく思うものです。撮られてうれしいのがポートレートだったわけです。
現在の何でもアリな状況では、つい見過ごされてしまいがちな、この「被写体の気持ち」。
歴史を振り返って言えること、それはただキレイに、ただカッコよくではなく、被写体に喜んでもらえる写真こそが、ポートレートだったということです。
まとめ
ポートレートについては、「オネーチャンをキレイに撮った写真」くらいが、一般的なイメージかもしれません。(実際「ポートレート」で画像検索すると、若い女性の写真がズラズラッと並びます。)
そして現在では、ポートレートはいくらでも加工できますし、別人にすることも、特殊なエフェクトも思いのままです。
そこでは被写体の想いはあまり考慮されていないかのようです。
しかし、歴史を振り返ると、ポートレートには常に撮られる側の想いというものがあり、そこでは常に、被写体の満足度が考慮されてきました。
そうです、ポートレートは、撮られた人が喜ぶかどうか、という視点も見過ごすわけにはいきません。
まあ普通に考えて、人と人とが対峙するわけですから、そこにはお互いに対する配慮が欠かせないのは当然のことです。
ポートレートは一種のコミュニケーションですね。
そういう意味では、撮り手と撮られ手の幸せな関係から生まれる写真こそが、本当にいいポートレートと呼べるのではないでしょうか。
撮り手として撮る場合には、ただキレイにだけでなく、撮られた人に喜んでもらえるように配慮することも、ひとつ大事なコトですね。
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